東京都江戸川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江戸川区北小岩3-23-3 (北野神社) 江戸時代から昭和の初期まで多くの集落で行われていたのが「力石」を用いての力くらべ(力持ち)である 本力石は日本一の力持ちといわれた三ノ宮卯之助(1807~1854)が持ち上げたとされる 東京で唯一現存する力石で卯之助の名前と三十八貫目と印されている PR 所在地 江戸川区北小岩4-27 正真寺境外仏堂の観音堂は 光ヶ嶽観音堂(てるがたけかんのんどう)と号し弘法大師の大曼荼羅戒壇前にて鋳造された小金像をお祀りしています。 光ヶ嶽観音は一寸八分(約6cm)ほどですが室町時代末期の武将里見義豊 義俊の守り本尊で常に甲冑に収め戦場に赴いたと伝えられております。 その後 観音像は千福寺(現存せず)に安置されましたが里見家子孫に至って供養を怠ったところ文禄元年(1592)地元の沖田家祖先豊前の枕元で大きな音が響き驚いた豊前が跳び起きると観音像が立っていたといいます。 翌朝豊前が千福寺に詣でるとそこに観音像はなく 豊前は屋敷内にお堂を建立以来 観音像は江戸 明治 大正 昭和 平成と通じて北小岩の信仰となったものです。 地元の由緒ある文化財といえるでしょう。 また勝手のお堂は火災 戦災で被害を受けた人たちに貸し出されたりお年寄りの集い踊りの稽古場にも利用され馴染み深い観音堂なのです。 地元の皆様のご協力を得て堂宇再建の機にその由来を記す。 平成19年(2007)8月吉日 正真寺住職 田嶋信雄 世話人一同 所在地 江戸川区北小岩4-41-6 真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶弔7年(1602)に法印良鑁(ほういんりょうばん)が開山したと伝えられています。本尊に木造阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘法大師筆と伝えられる「鼠心経(ねずみしんぎょう)」を所蔵しています。 昭和47年(1972)に萱葺きの本堂から鉄筋コンクリート造に立て替えられました。門前に青面金剛と馬頭観音が祀られ、境内には樹齢200年といわれるケヤキとスダジイがそびえています。 ・木造閻魔王坐像(区登録有形文化財) 寄木造りのこの像は、本堂内に祀ってあります。像高約81センチ。左手は掌を仰向けて膝の上にのせ、右手に笏を握っています。顔は忿怒の相で口を開き、胸飾りに日月をあらわしています。 銘はありませんが、江戸時代後期に、檀家によって家族の供養のために寄進されたもので、その頃の作と考えられます。 平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区北小岩7-27-5 正真寺は真言宗豊山派で、神明山西光院と号します。開山は暁覚法印で慶長6年(1601)に入寂しました。現在の本堂は唐破風様式の鉄筋コンクリート造で、昭和43年(1968)10月の再建です。寺宝としてはチベット語の教典が多数あります。 ・小岩田の庚申塔ばんどう道石造道標 昭和58年(1983)2月登録 区登録有形文化財・歴史資料 享保8年(1723)に建立された青面金剛の刻像庚申供養塔で、像の脇に「これより左ばんどうみち」と刻まれています。坂東道ならば、観音霊場の道、つまり岩槻道か浅草道をさしていると考えられます。 ・真田周作筆子塚 昭和62年(1987)2月登録 区登録有形文化財・歴史資料 寺子屋師匠だった真田周作夫妻のために、筆子(生徒)たちが建てました。真田周作は天保4年(1833)没。墓地は右手奥にあります。 平成14年(2002)12月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区北葛西4-24-16 旧西宇喜田村の鎮守で村社でした。祭神は豊受姫神を祀り、寛永20年(1643)創建といわれています。 境内に立つ石造の常灯明2基は、文政8年(1825)に再建されたものです。また境内には『乾海苔創業記念碑』『力石』があります。 平成15年(2003)7月 江戸川区教育委員会 常灯明2基 所在地 江戸川区北葛西4-24-16 (稲荷神社) 海苔はかって江戸川区の特産でした。この碑は、明治36年(1903)に建立されたもので、碑文の要旨は次のとおりです。 「東京湾の海苔を製造販売するものは、荏原郡大森村だけだった。明治19年(1886)西宇喜田村の里正(村長)、故宇田川政休は田中小五郎と協力し、この事業を創設した。百難を排して邁進し、村民を指導した結果、海苔採取が今日の繁栄を見るに至った。西宇喜田村の有志は碑を建て、二人の功績を百世に伝えようと、事情を熟知している橋本省吾に文を依頼し、碑文とした。 平成15年(2003)7月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区鹿骨1-25-23 真言宗豊山派で、金霊山神明寺と号します。中興開山は享禄3年(1530)円海律師といわれています。本尊は阿弥陀如来をまつっています。元禄2年(1689)に火災で焼失したために、旧鹿島神社の南の地から、ここに移転しました。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の鷹狩りでは、将軍の小休所になりました。 ■板碑・徳治3年(1308)戌申4月日銘 昭和57年(1982)2月指定 江戸川区指定有形文化財・歴史資料 当寺の墓地より出土したもので、徳治3年(1308)の銘が彫られています。 ■板碑・応長元年(1311)12月銘 昭和59年(1984)2月指定 江戸川区指定有形文化財・歴史資料 当寺近くの祠に祀られていた、応長元年(1311)の銘を持つ板碑です。現在は当寺に納められています。 平成13年(2001)11月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区鹿骨3-1 この鹿見塚のあるあたりは、昔から鹿骨発祥の地といわれています。伝説によると、戦国時代のころ、興亡のはげしい世の中を離れ、安住の地を求めて、石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓しました。ある日のこと、日ごろ尊崇している鹿島大神が常陸(茨城)から大和(奈良)に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられています。 昭和42年(1967)8月、氏子中によって「鹿骨発祥の地・鹿見塚」の碑が建てられています。 台座はコンクリート三段組で高さ98センチメートル、碑石は高さ81センチメートル、幅52センチメートル、厚さが13センチメートルあります。 現在の鹿見塚神社は昭和48年(1973)に再建築されました。 昭和52年(1977)11月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区小松川2-2先 中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。 江戸川区 所在地 江戸川区松島1-9-24 新義真言宗で長松山延命院といい、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれています。天文元年(1532)海成坊が開山し、本尊に春日仏師の作と伝えられる阿弥陀如来座像がまつられています。中興は宥昶法印で承応3年(1654)に入寂しました。 境内の不動堂に「五分一不動」と称される不動明王と「衣替観音」とよ荒れる正観世音菩薩がまつられています。 ■紙本着色地獄図(区登録有形文化財・絵画) 紙本着色で三幅対の地獄図です。文政13年(1830)に光福寺の什物となりました。江戸時代後期の作と考えられます。 十王の一人である閻魔王の「閻魔王庁図」に『住生要集』にのっとった〈六道絵〉のうち地獄道の「等活地獄図」と「阿鼻地獄図」のニ幅を加えた三幅構成になっています。 図柄には中国宋元画の影響がみられます。 1995年(平成7年)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区松島2-16-26 江戸川区登録有形文化財(歴史資料) 四股石造橋桁(部分) 今では荒川の開削によって消滅しましたが行徳道と元佐倉道が十字に交差するところは四股と呼ばれた交通の要所でした。この橋桁は四股を横切る小川の上に架けられていた橋のものです。架橋当初は板橋であったと想像されますが、いつの頃からか橋下は煉瓦造り、上部は花崗岩となり(石井藤三郎氏談)、現在残っているこの部分は花崗岩でつくられています。現在の所有者増田義男氏宅に移されたのは大正3年(1914)頃だそうですが、水没した四股の旧状を知るうえで貴重な遺亥です。 昭和58年(1983)3月15登録 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区松島2-18 ここに五分一橋がありました。 江戸時代から既に架けられていたようですが、建設年代は特定できていません。 この地は、江戸と下総佐倉を結ぶ元佐倉道の要衝にあり、逆井の渡しと小岩の渡し をいきかう旅人で、古くから賑わっていたようです。 昭和5年(1930)に、五分一橋は鉄筋コンクリートの橋に架け替えられました。人馬がいきかう時代から自動車の時代まで、長く人びとの往来を支えつづけてきた橋です。 昭和57年(1982)に、南北を流れていた川が埋め立てられると、川に架かっていた五分一橋の使命も終わりを迎えることとなりました。 平成14年(2002)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区松島3-38-18 寛永8年(1631)、大和(奈良県)の人秀円僧都が大西氏を従え東国巡錫のとき西小松川に至り、宇田川、関口、宮の各氏に迎えられて建立したのがはじまりと伝えられています。真言宗豊山派、施薬山医王寺と号し、本尊には秘仏の薬師如来をまつっています。 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会 境内には『青面金剛像庚申塔(江戸川区登録有形文化財)』があります。 所在地 江戸川区松島3-38-18 (東福院) 江戸川区登録有形文化財 青面金剛像庚申塔 庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の胎内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるという中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。 この塔は、もと大進路(旧西小松川村の2つの鎮守、香取神社と天祖神社を結ぶ道)の道筋にあって、昭和31年(1956)に移されました。悪疫を退治する青面金剛を中心とする江戸時代の典型的な庚申塔です。 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区松本1-9-14 黄檗宗で、貞享元年(1684)に、寿昌院桂月元皎禅尼が開基しました。草創は寛文年間といわれ、禅尼が小庵を結び、病気全快を祈願して弁財天を祀ったのがはじまりです。 本尊には、禅尼作の千手観音像(寛文9年作、1669)がまつられています。また、境内の弁天堂にちなんで、松本弁天とも呼ばれています。 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会 境内には『臥竜の松』があります。 所在地 江戸川区松本1-9-14 (寿昌院) 江戸川区登録天然記念物 臥竜の松 境内中央に見事な枝張りをみせるクロマツで、推定樹齢は500年です。「葛西志」(文政4年、1821)や「新編武蔵風土記稿」(文政11年、1828)に、「地上一尺許より別に一枝を生じて、笠の形に蟠延せる」姿が珍しいと絵入りで紹介されています。大正年間に大風のために幹が折れ、現在の姿になりました。 62年(1987)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区新堀1-5-18 当日枝神社は寛永二年霜月十五日名主八武崎隼仁助を始め氏予一同発願。導師空鏡師によって山王地主■現を勧請建立 明治初年迄 山王社と稱さるなり、「新堀村日枝神社 村の鎮守なり もと山王社と云う 一新後社号改む 社地百坪を有す。 新堀の守護神として祀られ 村の北西に鎮座す」と数々の記録にあるものなり。明治六年一月太政官布告「府下諸神社ノ内■■■■セル神社稱号有ルは甚ダ不都合 早々 社号改正云々」により 日枝神社と改名せり。 御祭神は大山■命を鎮守され 現新小岩香取神社神官の神勤の社となり崇められる。 大正七年氏示数四十七戸の改築後六十有余年の風霜に堪え老朽甚だしく神威を畏み、昭和五十五十一月氏子一同 神徳を奉賛し、建設委員会を組織し、浄財を募りここに造営せり。折りしも新堀土地区画整理の大事業も完遂し この記念事業として一層の念を加うるものなり。 総工費金八阡余萬圓也を費やし 社殿と共に境内建造物の全面的築造の完成を見るは、神慮の垂示と氏子の敬神の観念に依るところにして 茲に碑を建て永く記録に留むる次第なり。 昭和五十六年十月吉日 日枝神社宮司 亀井瑞雄 造営建設委員会代表 八武崎榮一 所在地 江戸川区新堀1-9-12 勝曼寺は真言宗豊山派で、九品山山王院と号します。約400年ほど前、奥州相馬庄大勝寺の住僧善誉房専芸和尚がこの地に来住し、薮崎隼人、山崎甚太郎らの協力を得て、この寺を建てたといわれています。 元禄の頃(1688~1704)秀翁和尚によって中興され、将軍鷹狩りのときに何度か御膳所にあてられました。 ◆木造阿弥陀如来立像 区登録有形文化財・彫刻 昭和57年(1982)2月登録 信徒達が、勝曼寺を開いた専芸和尚の菩提を弔うために寄進したと、胎内文書にあります。像高約35センチ、寄木造りですが、顔と胸部は一材から彫りだされています。江戸時代初期の作と推定されます。 平成14年(2002)12月 江戸川区教育委員会 陸軍一等兵八﨑榮藏顕彰碑 所在地 江戸川区西小岩2-2 旧上一色村の鎮守で、もとは神明社と称しました。祭神は天照大神、経津主命、武甕槌命を祀っています。創建年代は不詳です。 この神社では昔、盛大な裸祭りが行われていました。天保年間(1830~1843)江戸に疫病が流行した時、病気退散のため始めたと言われています。その様子を伝える板絵額が神社内に奉納されています。 ◆板絵額(区指定有形民俗文化財) 神社拝殿の中に8枚掲げられています。「裸参り図」は2枚あり、1枚は歌川国得筆、もう1枚の作者は不明ですが、どちらも行事の様子をよく伝えています。そのほか「楠公父子の図」(勝川春樹筆)、「伊勢参り図」、「加藤清正朝鮮の役の図」(文政3年〔1820〕奉納)、「行旅の図」(国得筆)、「天照大神図」、「兵士等伊勢参り図」(葛飾北俊筆・明治28年〔1895〕)があります。通常は公開されていませんが、例祭日(10月15日)など拝殿が開く日に拝観できます。 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区南小岩6-17-10 江戸川区指定天然記念物 浅見家のクスノキ クスノキは昭和53年(1978)に区の代表的樹木として「区の木」に指定されました。それを契機に公園をはじめ街路樹としても積極的に植えられたこともあって、区内のほとんどの地域で見られるようになりました。 この浅見家のクスノキは樹周が目どおりで2.63メートル、樹高17メートル、枝張り10メートルもあって、区内で数あるクスノキの中で最も大きく、樹形も美しく立派なものです。また、樹勢も良く、区の保護樹にもなっています。 平成5年(1993)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区西小松川町1-3 天祖神社の由来 天祖神社では、旧西小松川村草創の鎮守として、明治初頭まで神明社と称していた。明治5年(1872)11月に村社の社格に列せられる。詳細なる創立年代は、水害の為の書類流失により不詳であるが、神職家の祖先秋元刑部左衛門橘瀧次が仕えていた下総国千葉家より康正2丙年(1456年室町時代)に当所に引き移り神職を務め、子孫代々奉仕し、現在に至る。 新編武蔵風土記稿によれば、「神明社、村の鎮守 神主秋元式部 吉田家の配下なり 末社稲荷、疱瘡神」とあり、また、葛西誌には、「神明社村の鎮守なり 鹿島、香取大神ニ座を相殿に祀る 神主秋元式部持」と記載せられている。 当社は、神明造りの社殿構造上、氏子有志の浄財をもって屡々社殿を改築し、その都度の棟札を現在まで保存している。寛永5年(1628)12月、享保14年(1730)10月、宝暦4年(1754)3月、寛政5年(1793)11月、文化13年(1816)3月、昭和30年(1955)の5枚の棟札を所蔵している。寛永5年(1628)の棟札の表面には、次の如く記されている。 「奉遷宮唯一神道天下泰平氏子繁昌候 天下領三代将軍大御所様家康様 公方様秀忠様 当将軍 家光様 御手代伊奈半拾郎殿 目代富田半右衛門 目代 宇田川喜衛 当村名主宮甚左衛門 氏子惣百姓 神主秋元民部少輔橘基忠」 現在の社殿は、慶応3年(1867年 15代将軍徳川慶喜公が命じ天皇陛下に大政を奉還した年)に造立せられたものに、昭和30年(1955)増築したものがもととなっている。平成13年(2001)宮司・氏子総代・町内氏子有志の浄財をもって、本殿の土台を始めとする全面改修工事を実施し、平成14年(2002)5月には境内で落成式典が行われた。 境内社に文化5年(1808)6月創建された稲荷神社及び疱瘡神社(創建年代不詳)があるが、ともに平成13年(2001)の改修工事の時に新築された。 稲荷神社 天祖神社 旧西小松川村総鎮守 御鎮座 康正2年(1456年室町時代) 主祭神 天照大神 御神徳(家内安全、家運隆昌、病気平癒、安産、厄除け、交通安全、その他生活全般) 副祭神 香取大神(経津主大神) 御神徳(国家鎮護、家内安全、産業振興、海上守護、心願成就、縁結、安産、平和・外交、勝運、交通安全、災難除け) 鹿島大神(武甕槌大神) 御神徳(武道・競技等の必勝成就、旅行安全、五穀豊穣、殖産、安産、事業の創業、新規開拓、開運) 末社 稲荷神社(境内向かって右) 御神徳(五穀豊穣、商売繁盛祈願) 疱瘡神社(境内向かって左) 御神徳(天然痘、皮膚病、にきびなどの快癒及び予防祈願) 疱瘡神社 四つ段の道標(秋元邸内) 四つ段とは、旧行徳道と旧千葉街道の交差点で、現在の小松川橋の少し上流の、中土手寄りの地点にあった。銘文からみるとこの道標は、文化2年(1805)に建立された大事な道しるべであったが、大正2年(1913)の荒川開さくにより、現地保存が不可能になったので、当天祖神社隣接の庭内に移転したものである。 頭部の覆蓋は失われてしまったが、願立は加納惣内で、高さは台座から79センチメートルと小形だが、四面に銘文が刻まれているのは、区内では異色で珍しいものである。 銘文 大山石尊大権現 比向キ 市川道 秩父三峯山大権現 比向キ 浅草道 讃升金比羅大権現 比向キ 行徳道 遠州秋葉山大権現 比向キ 両国道 昭和53年(1978)11月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区西小松川町11-17 浄土宗で、無量山西方寺と号します。鎌倉光明寺の学僧、應誉良道上人が天文8年(1539)一宇を建立して、阿弥陀如来をまつったのがはじまりです。 当寺は、享保2年(1717)に将軍吉宗が放鷹のため当地を訪れたときに将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。 吉宗は、頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鶴が多く飛来していたことによると思われます。吉宗、家重、家治の3代で、100回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台印を御膳所にしています。 ◆木造阿弥陀如来立像(区指定有形文化財) 本尊の木造阿弥陀如来立像は、技法から鎌倉時代の制作と推定される秀作です。寄木造りで、脚部を別材でつくり、体部に差込む珍しい形式をもち、彫刻技術もすぐれています。 ◆加納甚内の墓(区登録史跡) 墓地の南西隅に加納甚内の墓があります。甚内は綱差役として将軍鷹狩りの御用をつとめたほか、新田開発者でもありました。享保年間に幕府が新田開発を奨励していた時、甚内はこれに応じ、西小松川村の菅野を開発しています。この新田は「綱差新田」、明治以降は「綱差耕地」と呼ばれ、荒川が開削されるまで残っていました。甚内は寛保3年(1743)に亡くなりましたが、その子孫は代々甚内を称して、綱差役が廃止されるまで、その役を世襲しました。 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会 |
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永山
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