東京都江戸川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江戸川区江戸川5-7 (熊野神社) 熊野神社境内の左隅にあります。 茶水汲む おくまんだしや 松の花 芭蕉の句と伝えられています。昭和43年(1968)10月15日、氏子のかたがたによって建てられました。 平成2年(1990)3月 江戸川区教育委員会 PR 所在地 江戸川区江戸川6-16-5 妙光寺は日蓮宗で、栄長山常泉院と号し、通称「赤門寺」といわれます。開山は日能上人(天正13年・1585没)です。『新編武蔵風土記稿』によると、当寺には「十界勧請の本尊。及び祖師を安す」とあり、この祖師が現本尊です。境内の七面殿には「海中出現七面大明神」があり、鬼子母神や疱瘡の神も祀られています。 寺宝としては、日乾・日遠・日重筆の曼荼羅があります。 ◆木造日蓮聖人坐像 昭和57年(1982)2月登録 区登録有形文化財・彫刻 文禄3年(1594)の作で、作者は不明です。像高21.6センチの小さな坐像ですが、容姿がよく整っています。ヒノキ材の寄木造りで、目は玉眼、紫色の衣と金襴の袈裟を着け、笏とお経の巻物を持っています。 平成14年(2002)12月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区江戸川6 新川は、かつて船堀川と呼ばれ、徳川家康の江戸入府とともに、行徳の塩を江戸に運ぶ「塩の道」として利用されるようになりました。 その後、ニの江村の字、三角渡し(現在の新川橋)から東側を新川口に向かって新たに開削し、全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、東日本諸国からの様々な物資を江戸へ運ぶ重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。 区は、この歴史ある新川の整備に向けて”新川千本桜計画”を策定し、江戸情緒あふれる河川整備に合わせ両岸に千本の桜を植えていきます。 葛西地域では、新川千本桜に賛同した方々が「新川千本桜の会」を結成し、その尽力により、多くの皆様から多大なるご寄附をいただきました。 ここに、地域の熱き想いを記念碑に刻み、後世に語り継いでいきます。 平成21年(2009)3月吉日 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区江戸川 この川は、もと江戸川の旧河道で天正18年(1590)家康が江戸城に入ってから、行徳の塩を船で運ぶ水路として利用された。その後、寛永6年(1629)新川が開かれたので「古川」と呼ばれるようになった。 時は流れて、この田園地帯にも都市化の波が押し寄せ、古川もその中に埋もれ、川としての機能も生命を失われようとした。これを憂いた「江戸川区長」は、親水河川として活用することを決意、昭和47年(1972)12月着工昭和49年(1974)4月竣工のスピードで、古川は区民の遊びや憩いの場として甦った、そして優れた工法は「全建賞」の栄誉に輝き、また古川は中学教科書や、遠く海外にも紹介された。 これからも古川のきれいな流れは、多くの人々に愛され親しまれた行くことであろう。 昭和52年(1977)7月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区鹿骨4-2-3 もっとい不動 真言宗豊山派 本命山 密蔵院 明光寺 えんま大王 この大王、人類史上初の死者なり。よってあの世の大王となる。他に9人の王たちを従え、死者を裁く権限を有する。 私たちは死んでのち35日目には、この王の前に立ち、生前についた数々の嘘を調べられる。 この場においても凝りもせず虚言すれば、ただちに舌を根こそぎ抜かれる。なぜ嘘が見抜けるかといえば、この王、死者の生前の善行悪行がもれなく記載されている「えんま帳」を持つがゆえである。 嘘をついても屁と思わず、否それをも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。 心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。 「どうか私のついた嘘を水に流してください」と。 もっとい不動 陸軍上等兵小宮康雄墓 所在地 江戸川区鹿骨4-9-17 鹿島神社 創建 奈良時代推定考察1200有余年前 御神徳 家内安全・攘災招福・身体健全・殖産・縁結・心願成就 御本殿(神明造) 明治14年(1881)12月造営 拝殿 大正8年(1919)造営 明治維新までは五社神明社あるいは五社神社といわれて、旧鹿骨村の鎮守であった。社殿は寛文6年(1666)に改築せられて円勝院が別当をつとめた。明治5年(1872)11月に社格を村社に列せられた古社である。 神楽殿 昭和37年(1962)造営 これは本村の草分けとなった石井長勝・田島・中代・牧野・別系石井姓の五氏が入植したとき、それぞれの氏神を合祀して建てたもの伝えられている。また村の口碑によると、昔常陸の国鹿島郡の鹿島大神が、大和国奈良の春日へお移りになる途中、大神のお供をしていた神鹿が急病でたおれたので、村人たちがていねいに葬って祀ったのが鹿見塚で、村人たちはこれを奇縁として、武甕槌命の分神と天照大御神ほか三神を勧請して一社を建立し、鹿島神社と名づけたともいわれている。 平成19年(2007)3月 江戸川区教育委員会 末社 稲荷社 末社 水神社 摂社(三社称)日枝神社 昭和63年(1988)2月造営 須賀神社 昭和63年(1988)2月造営 胡録神社 昭和63年(1988)2月造営 末社 稲荷社 昭和44年(1969)2月造営 水神社 昭和初期 不詳 宝蔵庫 平成13年(2001)10月完成 大鳥居(神明鳥居) 明治26年(1893)1月建立 御神燈 二基 明治9年(1876)2月奉納 狛犬 壱対 明治29年(1896)2月奉納 御手洗鉢(浄心) 文政6末年奉納 さし石 最大170キロ 江戸時代~昭和初期 平成14年(2002)5月吉日之記 日露戦役之碑 戦没者 三桂 明治39年(1906)5月建立 忠霊塔 戦没者 四十七桂 昭和41年(1966)4月建立 鹿島神社改築記念碑 大正8年(1919)建立 俳句の碑 明治9年(1876)建立 土地改良完成記念碑 昭和43年(1968)12月建立 20有余年の歳月を経て完了された鹿骨土地改良区の地域は、大東京の東端に位置し、野菜と園芸の生産地として、明治、大正、昭和の今日まで、都民の日常生活に必要な野菜の宝庫として知られ、又日本一の園芸の生産地でもあった。四季それぞれの花が供給され、この花により人心は安らぎ、すべての人類に喜びと感謝の意をあたえていた。然るにこの偉大な産業の地にも太平洋戦争による敗戦と云う事実が、この平和な地に異変をもたらした。国破れて山河あり と云う如く、ある者は家を焼かれ、土地は荒廃されて見る影もなく、地域住民の苦しみは並々ならぬものであった。吾等住民は此の惨状を挽回する為には、大きな苦痛や困難を乗り切らねばならなかった。何と云っても、地域復興の為にこの荒廃された土地と戦うことだ。この時地元有志は敢然として立上がり、土地の自力開発に決起する事に賛成された。そして昭和34年(1959)12月26日、鹿骨町外5ヶ町よりなる土地改良区を設立した。鹿骨町、松本町、谷河内町、新堀町、上篠崎町及び西一之江町の一部で総面積129.34ヘクタール、此の広大な地域が一致団結、発起人並に組合員334名の者が文字通り、日夜をわかたず改良事業に献身された。理事会は組合の最高機関として、各委員会に諮問し、完全なる土地改良の実現に努力され、工事委員会は各道水路を整備し、明るく住みよい町造り完成のために努力した。換地委員会は組合員の土地に対して、その面積に対し公平なる換地の実現を目的とし、評価委員会は全ての物件の評価に対して、不平のない事を目的として行われた。尚登記事務等も組合職員の努力により昭和46年(1971)12月27日ついに完成された。此の土地改良区も幾多の困難を克服して、狭曲な農道や灌漑用排水路も全く旧態を一新し、時代の要請に対応される鹿骨区民館、鹿骨中学校、東京都随一を誇る化学消防署等三大公共施設の用地もきまり、工事は各施設共建設の第一歩を踏み出しているのである。 省みて、此の土地改良事業は如何に困難であり、実に偉大なる事業である事を痛感すると共に、此の事業完成に御協力下された都の職員、区の職員の良き御指導並に組合役員及び組合員の一致協力の賜と思い、ここにその感謝と喜びを後世に残す事を目的として、この碑を建立する次第である。 昭和52年(1977)11月吉日 清算法人 鹿骨土地改良区 清算人代表 川手与八 会計清算人 中代伊治 清算人 岩楯泰ニ 森武義 高橋成子 中代喜四郎 中代源之助 村山幸四郎 はんの木会の碑 神鹿像 社叢(18種類)直径10c以上205本最大欅直径1.1m目通3.3m 所在地 江戸川区小松川3-4 現在の小松川地区は昔は西小松川地区の一部であったが、大正元年(1912)の荒川開さくにより西小松川と分離し、大正3年(1914)には新たに小松川町となったため、もとの氏神であった堂ヶ島の香取神社と、下之庭の天祖神社に参拝するのが不便となったので、両社の分霊を小松川の西光寺境内の稲荷神社に奉安して祀っていたが、昭和11年(1936)同所である現在地に社殿を建立すると共に、東篠崎の水神社を合祀して昭和12年(1937)6月4日に遷宮祭を行った。 かって当神社に安置していた獅子頭について伝説があり、昔祭礼に担ぎ出した若衆連が、酒代を得ようとこれを質入れした処、質倉の中の獅子頭が夜毎唸り出すので、家人が恐れ、貸金はいらぬから引取ってくれと頼み、再び神社に納められたというが今はここにない。 平成19年(2007)3月 江戸川区教育委員会 境内には『青面金剛像庚申塔(江戸川区登録有形民俗文化財)』、『新町御嶽神社』があります。 所在地 江戸川区小松川3-1 (小松川神社) 新町御嶽神社由緒 文政四五年ノ頃御府内新町ニ火災■發シ安ラカナラス組内一同發起シ文政六年未正月武州御嶽御分神ニ体ヲ奉載シ西矢澤氏東石井氏ノ両家ニ祠堂ヲ建立祭祀シ奉■シニ爾後災危起ラズ神徳ノ宏大ヲ皆讃仰セリ昭和十二年一月小松川神社建設セラルルニアタリ境内ニ遷座シ永代守護神ト祭祀シ奉ル 昭和十六年六月建之 一二三四丁目町御嶽會連合會 所在地 江戸川区小松川3-6-2 昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で下町一体は火の海と化し、江戸川区内でも死者800名、消失家屋1万1千戸のひがいを蒙りました。 この辺りも、すべての家屋が消失し、ただこの江戸川区区役所文書庫だけが焼けただれた姿で残りました。 区では、戦火の傷痕を止めるこの文書庫を貴重な歴史的遺産として保存し、戦争の惨禍を再び繰り返さぬよう次の世代に語り継ぐことにしました。 江戸川区 敷地内には『世代を結ぶ平和の像』があります。 所在地 江戸川区小松川3-6-2 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により、下町は炎の海と化し、10万人が亡くなり、100万人が家を失いました。 江戸川区でも、平井・小松川地区がほぼ全滅、800余名の人びとが尊い命を失い、当時小松川の地にあった区役所も消失し、その中で文書庫だけが焼け残りました。 江戸川区は、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ貴重な歴史的建築物として、文書庫を保存することにしました。 この母子像は、文書庫の保存を記念して、戦争の過ちを再び繰り返さない誓いを込めて、東京大空襲で理不尽にも尊い命を落とされた犠牲者を追悼し、平和の尊さを世代を越えて語り継ぐために、1万数千余の方々の浄財をもとに、戦災を体験された文化勲章受章彫刻家圓鍔勝三先生に制作を委嘱し、平成3年3月10日に「世代を結ぶ平和の像」をつくる会より、江戸川区に寄贈されたものです。 所在地 江戸川区松江1-3 赤稲荷神社再建記念碑 〔碑文〕 今回首都高速道七号線の道路用地として境内地64坪7合17の内26坪1合17の買収され、残地38坪5合を約1米5の盛土工事をなし上止用コンクリート及階段等を造りました。自社殿は荒廃して使用に堪べすよつは事井■■神社の拝殿■■厚意により無料護渡を受け昭和43年11月に■が解体作業に着手したのであります。同44年1月より復元工事に取かかり2月4日上棟式を行ひ倉■■■■■栄一郎宇田川利明三名が京都伏見稲荷大社より御霊■を受け2月2■■■■午に遷座■を宮司秋元重五郎祭生の■■齋行■■しました。境内末社■嶽社八雲社の修理■■和■の記念碑■の移■■行い比■に■るに復元されたのであります。 昭和44年5月6日7日の両日にわたり遷■記念奉祝金を■■■■■■稲荷神社■殿は高速7号線■■■厳に町内繁栄 産業発展ならびに交通安全等の守護神を■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 昭和44年5月 ■■■■■ 所在地 江戸川区船堀2-10-10 浄土宗で光照山影尊院とごうします。元和2年(1616)一蓮社専誉了雲上人の開山で、本尊は山越の来迎阿弥陀如来像です。 当寺は文久3年(1863)19世昌誉龍定によって書道家塾が開かれ、命じに入って平船学校を開設し、現在の船堀小学校の前身となっています。(寺宝として来迎の阿弥陀如来画像、釈迦涅槃画像を所蔵しています。) 墓地内には万治2年(1659)の笠付角柱型庚申塔がありますが、これは区内で最も古い時代のもののひとつです。 庚申塔は、庚申信仰の信者によって建立されました。60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が抜け出て天帝に罪過を告げるという道教の教えに由来します。 ◆笠つき庚申塔(万治2年〔1659〕銘) ◆青面金剛像庚申塔(寛文6年〔1666〕銘) ともに、区登録有形民俗文化財 平成2年(1990)3月 江戸川区教育委員会 境内には『青面金剛像庚申塔(江戸川区登録有形民俗文化財)』、『笠つき庚申塔(江戸川区登録有形民俗文化財)』があります。 所在地 江戸川区船堀6-9-30 浄土宗で、幸雲山道観院と号します。本尊は阿弥陀如来です。慶長年間に幸蓮社雲誉道観法龍上人が開山しました。北辰一刀流の武芸者、北島桃源の墓があります。 ◆大岡勇喜頌徳碑 区登録有形文化財・歴史資料 昭和62年(1987)2月25日登録 大岡勇喜は、明治8年(1875)に船堀村に移り住んで私立大岡学校を開きました。その子弟が先生の徳をたたえて碑を建てました。 平成15年(2003)3月 江戸川区教育委員会 境内には『青面金剛像庚申塔』、『食用蛙供養塔』があります。 所在地 江戸川区船堀6-9-30 (法龍寺) 江戸川区登録有形民俗文化財(民俗資料) 青面金剛像庚申塔 昭和59年(1984)2月28日登録 寛文4年(1664)造立で、金剛像の下に三猿が刻まれています。 平成15年(2003)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区船堀6-9-30 (法龍寺) 山門前にあります。食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息し、蓮田や水田が多かったので、自然繁殖を続け、輸出するほどになりました。当時は、捕獲は都の条例で許可制でした。終戦後は蛙を捕え、加工業者に渡し、生計を保つものも現れました。供養塔は東京都食用蛙組合によって、昭和27年(1952)に建てられた大変珍しいものです。 平成15年(2003)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区中葛西1 三角橋は、都市計画道路補助第290号線の整備にあわせ、新川に架かる新しい橋として平成8年(1996)5月に着手し、平成12年(2000)2月に完成しました。 水辺を身近に感じる歩道と、緩やかなアーチ形がこの橋の特徴です。 橋の名前は、地域の方々により親しまれるように皆様から応募を頂き名づけました。 この三角橋の完成により、地域の結びつきが強化されるとともに更なる発展を託し、これを誌します。 平成12年(2000)2月吉日 江戸川区長 多田正見 所在地 江戸川区東葛西1-23-19 (桑川神社) 江戸川区登録有形民俗文化財(民俗資料) 桑川の富士塚 昭和58年(1983)3月登録 富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。 この桑川の富士塚は、昭和4年(1929)に、旧桑川村の山玉参拝講の人たいが築造しました。高さ約2メートルの塚で、全体はボク石(溶岩) と丸石で覆われています。丸石の中には、力石も含まれています。塚の中腹には、昭和41年(1966)の記念銘のある石祠がまつられ、登山道は丸石の階段になっています。 平成14年(2002)1月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区東葛西1-38 永禄5年(1562)に創建された旧鍬から村の古刹で、浄土宗、一向山無量院と号します。開山は、誠蓮社法誉上人清教大和尚(元亀3年〔1572〕寂)です。本尊に、阿弥陀三尊像をまつっています。 参道入口には万治3年(1660)の銘をもつ地蔵菩薩像庚申塔、門内にも同年銘の阿弥陀如来像庚申塔があります。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が抜け出て天帝に罪過を告げるという道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建立されました。江戸時代には、悪疫を調伏する青面金剛を本尊とすることが多くみられましたが、初期には阿弥陀や地蔵なども刻まれました。 ◆地蔵菩薩像庚申塔(万治3年〔1660〕銘・女人講中) ◆阿弥陀如来像庚申塔(万治3年〔1660〕銘・男子講中) ともに江戸川区有形民俗文化財 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区東葛西2-28-16 曹洞宗で海潮山と号し、本尊は観世音菩薩です。承和14年(847)慈覚大師の創立といわれ、中興開山は栄室寿盛で寛永3年(1626)に入寂しました。 縁起によると、慈覚大師が唐から釈尊の正法を伝え受けて帰朝の際、大時化にあい難破しそうになりましたが、観世音菩薩の光明が輝いて風は止み、この地に無事上陸できました。 そこで、大師は尊像を栴檀に刻み堂宇を建て、本尊として祀ったのがこの寺の始まりと言われています。 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会 境内には『板碑』があります。 所在地 江戸川区東葛西2-28-16 (梵音寺) 江戸川区指定有形文化財 梵音寺の板碑 古くから境内のお堂の中に納められ、お地蔵様と一緒に祀られてきました。製作は文保元年(1317)6月で、この地域の鎌倉時代のようすを知る上で貴重な歴史資料です。 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会 |
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永山
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