東京都江戸川区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 江戸川区北小岩6 上小岩遺跡 上小岩遺跡は、区内で最も古くて大きな遺跡とみられ現在の北小岩6・7丁目付近と推定されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんでいます。 上小岩遺跡は、昭和27年(1952)に当時の小岩第三中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査により、この遺跡が古墳時代前期(今から約1600年前)をy通信とする低地の集落遺跡であることがわかりました。 出土品は、弥生時代中期のものから発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口緑をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。 また、ンらの正倉院文書に養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍があります。この中の甲和里という集落が小岩にあたると推定されていますが、これまでの調査でこれを裏づける集落跡が発見されていません。当時の出土品も少ないため、戸籍に見られる集落の存在確認は、今後の調査に期待されています。 昭和63年(1988)3月 江戸川区教育委員会 所在地 江戸川区東葛西6-3-1 地下鉄博物館 東京地下鉄と創設者(地下鉄の父)早川徳次 1914年(大正3年)、早川徳次は欧米の「鉄道と港湾」の調査研究のため、ロンドンを訪れました。網の目のように発達する地下鉄網を目のあたりにし、これからの東京の発展には地下鉄が不可欠だと考え、欧米各地の地下鉄を調査研究し、2年後に帰国します。 自ら地質・湧水量の調査をはじめ、上野や銀座の交差点に立ちこ交通量の調査を行い、反対者や競争相手が現れる中、協力者や資金を集め、東京地下鉄道株式会社を創設しました。 そして1927年(昭和2年)、日本最初の地下鉄を上野~浅草間(2.2km)に開通させ、彼の夢は結びました。 Tokyo Underground Railway And its founder (Father of Japanese subway) Noritsugu HAYAKAWA In 1914,Noritsugu HAYAKAWA visited London to conduct a research study of "railway and harbor" in Europe and the Unaited States. Deeply impressed by extensively developed subway network in London,he was convinced that an underground railway would be indispensable for the development of Tokyo in the future. He dedicated himself to research study of subways in Europe and the United States and returned to Japan 2 years later. He started by investigating the nature of the soil and underground water,and also studied the volume of traffic at the crossing of Ueno,Ginza and other streets in Tokyo.Despite the existence of opposition and competitors,HAYAKAWA was able to gather together collaborators and raise funds to establish the Tokyo Underground Railway Company. In 1927,the first subway in Japan opened between Ueno and Asakusa (2.2km) and his dream finally came true. ホームページ ⇒ http://www.chikahaku.jp/ 所在地 江戸川区東小岩6-15-15 小岩神社 旧中小岩、下小岩村の鎮守です。江戸時代には神明社、または五社明神社とよばれていましあ。天照大神、八幡、春日、住吉、玉津島の五座が祀られています。 もとは千葉県の行徳にあり、天文5年(1536)に下小岩村に社を移し、寛文11年(1671)には、古社に縁のあった酒井雅楽頭と板倉筑後守の両人から寄進を受け、本殿と拝殿を造営しました。 当社にはかつて5つの摂社があり、天保11年(1840)に摂社の一つであった現在地へと本社を移しました。明治時代になって小岩神社と改称しました。 明治37年(1904)、老朽化のため拝殿と幣殿を再建しました。境内に稲荷大明神と和魂神社(小岩の戦没者をまつる)等があります。 平成23年(2011)3月改訂 江戸川区教育委員会 小岩神社には『わらじ石』、『田邊荘太郎表徳碑』、『改築記念碑』、『力石』、『和魂神社』、『稲荷神社』、『浅間神社』があります。 神楽殿 所在地 江戸川区東小岩6-15-15 (小岩神社) 改築記念碑 當社は七百年前東葛西領行徳に御鎮座せる五社明神を天文5年(1536)(室町時代)小岩村萬福寺に御動座申上げ天保11年(1840)庚子9月現在の地に御遷座申上げ今日に至る尚當社には摂社五社(1丁目より5丁目に鎮座せる神社)あり畏くも伊勢皇大神春日大神八幡大神住吉大神玉津島媛大神を御奉祀申上げその廣大無邊の御神徳は氏子崇敬者の上に日夜加護せらる旧社殿は寛文11年(1671)9月酒井雅楽頭板倉筑後守より古社の故を以て本殿及拝殿の御造営を寄進せられたるも老朽甚しく氏子一同恐懼惜措くとこを知らず氏子多数の要望により改築奉賛会を結成し同会役員の献身的奔走により氏子崇敬者多数の賛同を仰ぎ昭和37年(1962)10月拝殿へ遺伝の竣工及境内整備の完成を見るに至れり之因より御神徳によるとはいえ氏子崇敬者の至誠なくして能くこのこのことあるべからず因って茲に篤信を録して記念とす 宮司 関秋夫 穪宣 関保規 所在地 江戸川区東小岩6-15-15 (小岩神社) 田邊荘太郎表徳碑 君ハ小岩村大字中小岩ノ人夙ニ名望アリ資性英邁温厚篤實公共心ニ富ミ未曾テ人ト爭ハス其ノ温情能ク小児ヲ馴レ親マシム而モス毅然トシエ冒スヘカラサルノ風アリ明治初年少壮ニシテ村民ノ嘱望スル所トナリ村治ニ盡瘁ス爾来常ニ其ノ要職ニ在リ明治23年(1890)町村制施行セラルルヤ挙ラレテ小岩村常設委員トナリ32年(1899)小岩田普通水利組合議員34年(1901)同村会議員38年(1905)同村学務委員42年(1909)小岩小学校建築委員大正4年(1915)東葛西水害予防組合議員上下ノ割及上ノ割普通水利組合議員南葛飾郡会議員等ニ歴任シ其ノ職務ニ忠實ニシテ而モ記臆力ニ富ミ小岩村ノ活字引ヲ以テ称セラル又常ニ敬神ノ志篤ク小岩神社氏子總代トシテ多年神職ヲ助ケテ力ヲ神社ニ致シ衆■シ誘掖シテ神徳ノ宣揚ヲ圖リタルノ功労尠少ナラス由来社交ノ事タル寛大推量以テ人ニ接スルモ猶且怨聲ナキヲ得ス而モ八面玲瓏四方敵ナキ■君ノ如キハ牢ニ見ル所トシテ其ノ村治ニ貢献シタルノ偉績歿スヘカラナルモノアリ惜哉大正7年(1918)7月30日病ヲ以テ歿ス享年六十有九 大正8年(1919)4月 可亭岡本喜信書
<<前のページ
|
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|