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東京都江戸川区の歴史
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所在地 東京都江戸川区北葛西3-2-1 (行船公園)

  田中源先生顕彰之碑



 その生涯を社会公共の福祉にささげられし先生の偉績は久遠に不滅 後進を教化し郷民自奮自励の亀鑑なり 先生逝いて十三年同士相はかりゆかりの地行船公園に之を建つ

     昭和34年(1959年)4月吉辰



『 公心如日月 』 内閣総理大臣 福田赳夫
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所在地 東京都江戸川区北葛西3-2-1 (行船公園)

 大正6年(1917年)10月1日の暴風とこれに伴う高潮の襲来は、明治以降江戸川区を襲った風水害の中で最大の被害をもたらしました。この高潮による葛西村の被害は死者230人、負傷者9名、流失・破損家屋は1,355棟と東京湾沿岸では最大のものでありました。
 この被害に対し当時の井上友一東京府知事は、直ちに被害者の救済に乗り出し、罹災者一時収容所の設置をはじめ食糧の配給と傷病者の治療を行うなど各般にわたって救護の手をさしのべられ、中でもこの高潮による流失・破損家屋の復旧に大変なご尽力をいただきました。
 この灯籠は大正8年(1919年)6月12日、49歳の若さで急逝された井上東京府知事へ報恩の証として、葛西村の住民の総意により墓前に奉納されたものです。
     平成21年(2009年)5月 江戸川区



『 天災は忘れられたる頃来る 』 
                 
                                       理学博士 寺田寅彦


所在地 江戸川区江戸川5-4

 区指定有形文化財・民俗資料
        昭和56年(1891)1月指定



 江戸時代の村では、建物にもさまざまな制限が設けられており、門構えを許された家も限られていました。長屋門は外観が立派なことと、両側を物置に利用できて便利なので、特に好まれました。
 宇田川家は江戸時代にニ之江村の村役人をつとめていました。この門は、江戸時代後期に建てられたと推定されています。茅葺きで、武者窓のあるのが特徴です。

 平成15年(2003)2月 江戸川教育委員会



所在地 江戸川区江戸川5-4

  昭和58年(1983)3月登録 区登録有形文化財・歴史資料
 宇田川家長屋門の前にあります。高さ67センチ、周長152センチ、丸い自然石で正面には「是ヨリ左リ行徳道」、左面には「田中孫右衛門」とあります。もとはすぐそばの突留橋にありました。
 平成15年(2003)2月 江戸川区教育委員会





所在地 江戸川区江戸川3-8-1

  本堂
 本尊 阿弥陀如来 脇士 観音 勢至
菩薩の三尊を奉安し 脇壇に浄土宗の高祖
善導大師 宗祖 明照和順大師法然上人の尊像を安置しています。

 本堂

 昭和初の頃の当時は 境内も低く 諸堂宇も老朽し 関東大震災(1923)で破損していました。よって改築が計られ檀信徒一致して大事業に当りました。
 境内の地上げは 江戸川の中洲からトロッコで土砂が運ばれ この作業は檀信徒と村の青年団員の労力奉仕によって また本堂基礎の土盛は 5百坪の水田を掘った土を運んでなされました。
 用材の檜は 見本から吟味して木挽くなど数年の日数と当時所有の水田 三町部売却し さらに檀家の多額の寄付と年貢の前借りなど苦心の財をもって昭和3年(1928)書院 昭和6年(1931)本堂が改築落成しました。境内墓地も改修され 大変よく整った景観でした。




 昭和27年(1952)保育園 40年(1965)幼稚園を開設したため 親鸞堂の移築などを行い また 昭和48年(1973)に庫裏を改築 昭和57年(1982)檀信徒の寄進により 奥書院が新築される等で景観が整はなくなりました。



 よって昭和60年(1985)再度の檀信徒の寄進により 境内 敷石改修 植樹を行い 特志家によって お茶所(慈照庵) 水屋 掲示板 悲母観音像  寺号塔 などが寄進され 現在の景観になりました。
 寺号額は 三十世 快誉従妹 日展 無鑑賞の書家 関口寿光女史の書です。



 境内には『佃観音堂』、『大師堂』、『太子堂』、『親鸞堂』があります。


所在地 江戸川区江戸川3-8-1 (明福寺)

 親鸞聖人ご自作と伝える御真影を安置しています。(御像は区文化財指定)
 当明福寺は親鸞聖人の24輩の一つと伝えられ古くから旧都内の浄土真宗門徒の人々によって鎌田講が組織され毎年5月8日に報恩講が勤められていました。(現在は4月第3日曜日に太子祭と併せて勤修しています)
 当寺に伝わる 親鸞聖人縁起によれば聖人は常陸国稲田に隠居されていましたが50余才のころ京都へお帰りになろうと嘉禄2年(1226)庵堂を出て同年6月の初め下鎌田村にお着きになりましたが炎暑はなはだしいので旅の疲れを休めようと池のほとりの 柳の陰に たたずんでおられたとき 老翁があらわれ 炎熱の時 いく日も雨降らず田の苗焦がれている このようでは農民が 餓死するのも近いので万民を哀れみ 雨乞いをしたまえと申しました。聖人は西に向って礼拝合掌し 声高らかに 天下和順 日日清明 風雨以時 災属不起 国豊民安 と唱えられ 念佛十返 したまうと 雷とどろき 雨 雲天をおおい大雨が降り農民は救はれました。
 老翁がしばらく此地に止まり 衆生を教化したまえと願いましたので 池のほとりに草庵を結び 所持の聖徳太子の真影を安置し住まわれること3年 池の水に影を映し自身の像を刻まれ残しおかれたのが安置するニ尺五寸の尊像なり 老翁は南の方の堂内安置 毘沙門天の変化なり  とあります。
 影を映された池を鏡ヶ池といい本堂裏にあります。 
 現在のお堂は昭和35年(1960)親鸞聖人7百年遠忌に当り鎌田講 講元 原田吉蔵氏の喜進により移築建立されました。
 堂額は 浄土真宗 本願寺派 大谷光照門主の書です。



所在地 江戸川区江戸川3-8-1 (明福寺)

 親鸞聖人が所持されたと伝える 聖徳太子の像形立像と わきに親鸞聖人縁起ゆかりの毘沙門天と観音菩薩とが安置されています。
 太子堂は当明福寺が別当として所管し昭和初めまでは下鎌田村の村中がお祭を行ってきました。また太子は 古来曲尺の師 職人の祖として崇められ 職方の講が 小岩 葛西 浦安方面にあります。かって傘製造が盛んであった昭和10年代頃までは 小岩方面を中心とする傘職人の講中もありました。
 現在は下鎌田 今井を中心に太子講が組織され 例祭が勤められています。
 聖徳太子の御命日は2月22日で月おくれの3月22日に例祭が修されていましたが現在は4月第3土、日に勤めています。
 堂額は 江戸末期の著名な書家 深川の 三井親和 の書です。



所在地 江戸川区江戸川3-8-1 (明福寺)

 本尊大日如来 尊像と弘法大師の像が安置されています。
 明治43年(1910)に新四国南葛88ヶ所第28番の札所として建てられました。
 四国までは遠くて巡礼できないので下町の庶民のために南葛飾郡(現在の江戸川区 葛飾区 足立区)のお寺をえらんで建てられたものです。

 堂 右側の石碑には
表に 新四国南葛88ヶ所
     弘法大師
     第28番札所 明福寺
右側に 明治43年3月12日
裏に 神田
    日本橋 魚がし の文字が見えます。



所在地 江戸川区江戸川3-8-1 (明福寺)

  佃観音堂(子育観音)
 昭和10年(1935) 中央区佃島から移したもので観音菩薩が安置されています。
 由来によれば 明治3年(1870)2月佃島の一漁師が海中より拾いあげ我家のかたわらに安置し供養していました。霊感あらたかで誰いうとなく子育観音と名づけました。
 ある夜 佃 己之の妻女に「閑静な所に移りたい」とお告げがあり因縁をたどって 当 明福寺境内に奉安されました。
 現在も 佃 己之の子孫の方によって維持されています。
 赤子をかかえた 母親がお乳がよく出ますようにと願をかけた祈りが込められています。



所在地 江戸川区江戸川3-24

 祭神は、素盞鳴尊(すさおのみこと)で、旧上今井村では香取神社と並んで、人びとから尊崇された鎮守である。創建年月日は不詳だが、昔は特に水路の神として信仰され、舟人たちが江戸川を航行して神社の前を
通るときは、帆を下げて舟路の安全を祈ったといわれる。



 神紋は祇園守紋で、形が胡瓜を輪切りにしたようにみえることから、土地の人たちには胡瓜の初物を神にそなえてから食する習わしがあった。



  笹団子行事 
        江戸川区登録無形民俗文化財・風俗慣習

 7月の満月の夜の大祭では、参詣者に笹の枝に団子と神符をつけた「笹団子」を授け、無病息災を祈った。この行事は、今の受継がれている。

 昭和53年(1978)7月 
 江戸川区教育委員会(平成18年〔2006〕7月改修)


所在地 
江戸川区江戸川3-44

 旧上今井村の総鎮守で、経津主命を祀り、別当は地元円照寺でした。永禄7年(1564)の創建といわれています。本地仏として11面観音が奉安されています。社殿は昭和49年(1974)に再建されました。



 境内北側に今井の富士塚〔江戸川区登録有形民俗文化財 民俗資料 昭和58年(1983)3月登録〕と富士講の記念碑が建っています。 
 平成14年(2002)3月 江戸川区教育委員会

 八幡宮

 金比羅宮






  香取神社御造営記念碑

本神社は 永禄7年(1564)8月15日に創建なり 当村は小田原役帳に遠山丹波守 石高十七貫三百文 葛西今井上下と記しあり 武州葛西領上今井村一帯の総鎮守として勧請せられたり 社宝に菩薩像一基あり而して 当時名主榎本半兵衛 田島浅衛門などにより宮大工当村住人惣三朗が棟梁となり当時の社殿を御造営せらる
当社殿は明治初期の改築で老朽甚だしきにより氏子総代建設委員等心を一つにして社殿の御造営を相計り 敬神の念厚き氏子各位のご賛同に依り昭和47年(1972)12月工を起す 昭和48年(1973)1月16日道ヶ島香取神社へ当社の御霊を
遷座す 昭和49年(1974)5月本殿竣工により正遷座を執行す
 昭和49年(1974)7月27日
  香取神社宮司 亀井悦造識  

まつりがさ 八重の照る妙 明る妙 鳴瀬


所在地 江戸川区江戸川3-44
 (香取神社)

江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
 今井の富士塚
     昭和58年(1983)3月登録



 香取神社境内北側に富士塚と富士講の記念碑が建っています。 
 今井の富士塚は、旧上今井村の上いまい割菱八行講によって、昭和5年(1930)に築造されました。高さ約2.5メートルで、頂上に石祠をまつり、登山道の途中に「浅間神社」と刻んだ碑があります。そのほか、「元祖食行身禄」の碑や烏帽子岩、力石などを配しています。



 また富士塚のふもとには寛延4年(1751)建立の庚申塔(青面金剛)があります。
 平成14年(2002)3月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区江戸川6-4-11

 新義真言宗で海照山普門院と号し、本尊は、聖観世音菩薩で行基の作といわれています。



 寺伝によると、むかしこの地に観音堂があって村人の信仰を集めていました。永享10年(1438)に、栄源法印が不動明王を背負って遍歴したのち、永住するようになったので、人々が協力してお堂を建て、蓮華寺と称したのが始まるといわれています。
 建物は安政2年(1855)の地震、大正6年(1917)の津波や関東大震災で全壊の災厄にあいましたが、昭和47年(1972)に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。


 
  虫除不動

 本堂に、不動明王立像が安置されています。昔から「虫除不動」といわれて、子どもの癇の虫に霊験があらたかであるとして、広く人々に信仰されました。

 平成15年(2003)3月 江戸川区教育委員会
山門

所在地 江戸川区江戸川6-7-15

日蓮宗
 本覚山 成就院 妙勝寺

本堂

 日蓮宗で本覚宇尼成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として十四か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。

釈迦殿

 寺伝によると、弘安7年(1284)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、ニ之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治2年(1307)3月のことといわれます。


開山堂

   紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財)

 天保14年(1843)32世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(~1850)に依頼し、ニ幅とも日高、日祐承認の真筆であると認めた証文が残っています。

 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会





所在地 江戸川区江戸川6-45

 ニ之江村の鎮守で香取神社と称し、明治6年(1873)、村社となりました。創立年月日は定かではありませんが、経律主命を祀り、現在地にありました。



 八幡神社は寛文年間(1661~1673)の創建で、誉田別神(ほんだわけのかみ)を祀りました。もとは地元妙勝寺の境内社であって、三重番神ともいわれましたが、昭和42年(1967)12月香取神社と合祀して、新たにニ之江神社としました。



 境内には『ニ之江神社のケヤキ(江戸川区登録天然記念物)』があります。



所在地 江戸川区東葛西6(東京メトロ東西線 葛西駅バスターミナル)

   沿革
 葛西は東京都江戸川区南部(旧東京府南葛飾郡葛西村を中心とする)の地域で、江戸時代は桑川村と長島村、東宇喜田村、西宇喜田村に分かれていましたが、1889年町村制が施工され、四つの村が合併して葛西村となりました。
 いくつもの時を積み重ね、戦後の高度経済成長期に入ると、時代は葛西の地を田畑から住宅地へと変貌することを求めるようになりました。
 このような流れのなか、未来に向けた新しい葛西のまちを築こうと、1968年葛西土地区画整理組合準備会が結成され、1969年12月6日に組合設立認可となり、「葛西土地区画整理組合」が誕生しました。
 施行区域は、葛西1丁目全部及び長島町の一部で、東は江戸川を臨み、西は長島、新田組合の施行区域に接し、南は葛西2、3丁目に北は長島町の一部につながる、約93ヘクタールという広大な施行面積となりました。
 おりしも工業化の進展と地下水の汲み上げにより地盤沈下がすすむなか、蓮田や水田を切り開き、道路や公園を造り、軟弱地盤でヘドロと戦い宅地を造るという難関な工事となりました。
 わが葛西を住みよいまち、快適に暮らせるまちにすることを目指して、心を込めて土を盛り続けたのです。
 1969年3月29日地下鉄東西線が開通し、葛西役の乗降客数も日を追うごとにふくらみ、1971年には1日1万人に達し、2007年には、なんと9万人にもなりました。
 今、葛西駅周辺のまちなみが整備され、環状7号線や放射16号線などが開通し、葛西のまちが、魅力あるまちへと、その姿を変えています。 
 ここに発足以来約40年、苦難の歳月を経て、終着点にふさわしい健全なまちの誕生を願い、ともに歩んできた仲間、組合員の熱い思いを刻み、次の世代へ繋ぐため記念碑を建立します。
 2008年9月吉日 葛西土地区画整理組合



所在地 江戸川区東瑞江1-18

  史跡 豊田神社



 旧下鎌田村の鎮守である。

 創建は不詳であるが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と経津主命(ふつぬしのみこと)をまつり、もと神明社といった。明治のしょきに同地にあった別当の長寿院が廃寺となったので、その跡に社殿を建立して「豊田神社」と改称した。



 この神社は五穀豊穣の神として、近隣の人達にあがめられていた。その名残として、今でも9月27日には氏子達によって、感謝の祭りが行われている。



 境内には、5本の大きな欅の木がある。なかでも御神木になっている欅は、樹齢2百年ともいわれ(幹の経150センチメートル、樹高23メートル)御神木にふさわしい樹形をなしている。昔はこの神木のそばに池があったというが今はその面影がない。

 昭和52年(1977)7月  江戸川区教育委員会



 境内には『下鎌田の富士塚』、『豊田神社の社叢』があります。





所在地 江戸川区東瑞江2-39

  江戸川区登録有形文化財
 地蔵堂の庚申塔



 本地蔵堂内に安置されている観音庚申塔は享保5年(1720)旧下鎌田村の念仏講中35名のものが、秩父34箇所の観音巡拝の記念として造立したもので、碑高119、幅50、厚さ30、台座の高さ28、横幅66、奥行55(単位センチメートル)におよぶ大型の庚申塔である。



 本塔の特徴は、観音像34体が碑面一ぱいに刻まれている点で、7段にかけて、最上部に立像4体、二段目からは座像と立像が交互に5体ずる刻まれ、最下部には三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が彫られ、両側には脇侍の童子が向き合っているものである。こうした形式のものは、本区内になく、また都内でも珍しい特異のものである。

 昭和52年(1977)7月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東瑞江2-45

  史跡 道祖神

 古くは祭神として、八衢比古(やちまたひこ)の神、八衢比売(やちまたひめ)の神を祀ったものであるが、後には「どうろくじん」などと呼ばれ、庚申と混同されるようになった。初めは道のほとりや、村境に建立されたと思われるが、現在はお堂や、お宮の中に祀られているものが多い。



 この神は所によっては「さえの神」ともいわれ、性的神や男女和合縁結びの神とされたりしたが、一般には悪魔の侵入を防ぎ、災いを追い払い、病気をなおす神として崇められ、はたまた、道を守る神という考えから、旅行の安全を祈願する信仰に変わっていった。



 当道祖神の建立年月は不詳であるが、この辺の人たちの、深い信仰を集めていた神といわれ、屋号を「どうろくじん」と呼ばれる内山家が、大切に保存してきたものである。

 平成19年(2007)3月 江戸川区教育委員会

 
内山家


所在地 江戸川区中央4-5-23



     香取神社の由来

 香取神社は別名を間々井神社と称し、棟礼によると、元和3年(1617)に再建されたご神徳の多い有難い神社です。
 その当時より、社の東に流れる小松川(親水公園)は、下総、国府台真間と武蔵江戸城を結ぶ重要な水路でありました。伝説によれば、長禄の頃、太田道灌持資は、国府台控城に往来の時、この神社に舟を泊め、境内の霊水を吸み、船路の安全を祈願したので間々井神社と称される様になったことを伝えています。
 当時は、当地に16軒の農家しかありませんでした。荒地を耕し苦労の末、切り開いたのです。その小松川16軒農家が当神社の創立をしたと言います。天正18年(1590)には徳川家康江戸入城となり、産物の販路も開け農民も豊かになりましたが、丙午年毎に襲う大洪水に(天明6年〔1786〕)人馬穀類共に大飢餓に遭遇した事が記されてあります。
 現在の本殿は文政5年(1823)今より約170年前、用材を仕入れ、五分一に住む宮大工八郎が十年の歳月を経て、天保3年(1832)に完成させた名建築物であります。



 明治6年(1873)には太政官より地租改正のお触れがあり、村民はそのお触れに従い土地調査事業に着手、村内の精密な地図を作成、武蔵国葛飾郡西小松川村全図が出来、初代知事により検認されました。
 その武蔵国葛飾郡西小松川村全図は、江戸川区有形文化財に指定され当神社に保存されて居ります。



 遠い長禄の時代より平成の今日迄、有難いご祭神のご神徳に感謝し、その霊験を戴き、信ずる人々の念願の達成をお祈り申し、合掌致します。
 平成元年(1990)6月吉日



 境内には『小松菜ゆかりの里碑』、『葛飾風物保存の碑』、『宮司 亀井悦造胸像』、『道祖神』、『稲荷神社』、『水神社』、『大雷神』、『鷲神社』、『鏝塚』があります。


所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社) 

   江戸・東京の農業  小松菜
 享保4年(1719)、8代将軍吉宗が鷹狩をするときの食事をする場所として、当道灌島香取神社が選ばれ、時の神主亀井和泉守永範がそのお役を受けました。しかし、これといって差し上げるものもなかったので、餅のすまし汁に青菜を少々、彩りとしてあしらって差し出すと、吉宗は大変喜ばれ、この菜をこの地にちなんで「小松菜」と命名されたと伝えられています。それ以来、当社の祭事には必ず小松菜を神前に供えて氏子永代の反映を祈願しています。
 文化元年(1804)の「成形図説」には、「小松川地方で産する菜は、茎円くしてすこし青く味旨し」とあり、文政11年(1828)「新編武蔵風土記稿」には、「菘 東火災領小松川辺の産を佳品とす。世に小松菜と称せり」と記されています。
 味のよい優れた菜類として江戸の人々に喜ばれた小松菜は江戸川区の特産野菜となりました。
   平成9年度JA東京グループ
   農業協同組合法施行50周年記念事業
   江戸川区農業協同組合

         THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
                                 Komatsu-na
 In 1719 when the eighth Shogun Yoshimune Tokugawa went hawking,this shfine was selected for his lunching site.As there was no special feast to serve the lord,they offered a simple clear"Mochi"(rice kake)soup garnished with a green begetable.The Shogun got fascinated with the begetable and named it Komatsu-na after the locality.
 The tasty Komatsu-na (a kind of Chinese cabbage)was very much liked by Edo sitizens and still remains as a spesialty product of Edogawa ward of Tokyo.






所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社)

    稲荷神社の由来
 稲荷神社は『トヨウケヒメノミコト』をお祀り致し、当社は俗に『アリマイナリ』と申されて居ります。昔は居間の松島3丁目27番にお祀りされて居りましたが、土地整理の為、境内に移転となりました。
 例年初午を例祭と致し、稲荷講の行事がありまして、各村々の子供達が参加して一夜を楽しみました。
 現在、祭典は3月1日道祖神と共に行われます。産業発展の神として日本全国各地にもお祀りされて居ります。


所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社)

   葛飾風物保存の碑

鮒焼くや  麦の朧が つつむ家 
                   鳴瀬

干ては枯れ  濡れては大野  枯れ果てし 
                           鳴瀬

花人に  ひやかされつつ  打つ田かな 
                       杉芽女

蓮の径  蜆売りなど  それて来し 
                   
杉芽女


所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社)

     胸像設立の趣旨
 亀井悦造氏は明治32年(1899)6月6日 東京府南葛飾郡西小松川村大字道ヶ嶋12番地に父信太郎 母美年の長男として生まる 大正2年(1913)松川尋常高等小学校を卒業 昭和5年(1930)国学院大学皇典講究所に於いて神職の階位を修得 昭和10年(1935)8月15日関係神社社掌を拝命 昭和36年(1961)神社庁江戸川区支部長に就任昭和37年(1962)より神社本庁参与に補せられ ついで身分2級を賜り近郷の産土神社21社の兼務を拝命さる 氏は社家亀井和泉守源朝臣永好より21代目に当り半世紀を神明に奉仕されたが この度その職を退くにあたり胸像を建立 その業蹟を称え氏の威徳を永久に伝える
 昭和54年(1979)8月吉日
  宮司 亀井悦造氏胸像建立委員会
    委員長 久本 翠
    







所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社)  

    水神社の由来
 水神社は『ミヅハノメノミコト』をお祀りし、昔より現在の松島3丁目26番に永くお祀りされて居りました。
 土地の整理の為、昭和35年(1960)に当神社境内に移転となりました。6月15日は、昔より祭日に定められて居りまして、農業の水利と船の安全を祈る祭として盛大な祭が行われて居りました。
 平成元年より、上一之江大雷神と共に合同際が執り行われます。





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