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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区東葛西7-23-17

 真言宗豊山派で無量寿山遍照智院と号します。本尊は木造阿弥陀如来立像で名僧行基の作と伝えられています。



◆紙本着色両界曼荼羅図
昭和60年(1985)3月登録
区登録有名文化財・絵画
 文政2年(1819)に豊山派総本山、大和長谷寺の両界曼荼羅を模写したものです。

 

◆市川松老墓誌銘
昭和61年(1986)2月登録
区登録有形文化財・歴史資料
 文政6年(1823)に村人に諸堂を指導した市川松老の徳をしのび門人たちが建てました。

◆絹本着色仏涅槃図
平成6年(1994)2月指定
区指定有形文化財・絵画
 江戸時代後期の作と考えられる仏涅槃図です。全体に念入りな彩色が施されています。
 平成15年(2003)2月 江戸川区教育委員会

 境内には『鐘楼』があります。

 
 
 如意輪観世音菩薩
除災招福の仏さまとして、広く愛敬されている仏さまです。当寺では、江戸中期に、十九夜女人講が組織され安産を念ずる人々の信仰をあつめてまいりました。長い間、風雪に晒され、いたみがはげしいので天蓋を設け、お祀り申し上げることになりました。
 当山主
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所在地 江戸川区東葛西7-23-17 (昇覚寺)

江戸川区指定有形文化財(建造物)
 昇覚寺鐘楼
     昭和56年(1981)1月指定

天明年間の建立で、江戸時代中期の建築様式をよく伝える鐘楼です。昭和59年(1984)に解体復元修理を行いました。
 平成15年(2003)2月 江戸川区教育委員会



 建築規模は桁行三間、梁行二間、構造は袴腰付、入母屋造、桟瓦葺。建築年代は梵鐘を鋳造した天明5年(1785)前後の竣工と推定されています。大工はニ之江村加藤茂七。江戸時代中期の建築様式をよく伝えており、建築史のうえでも貴重なものです。
◆解体復元修理
 200年の風雨に耐え傷みが進んだため解体復元修理をしました。昭和59年(1984)6月着工、昭和60年(1985)6月竣工。
 古材は原則として生かし、忠実な現状復元を行いました。ただし必要と認められた部材の一部については樹脂処理を施し、腐朽の著しい部材については新材に取り替えました。
◆地下遺構・そろばん地業
 鐘楼の基礎を調査中に発見されました。これは低湿地等で建築物を安全に支える(自重を支え、不同沈下を防ぐ)仕掛けで、杭を打ち込み、松村の木組をのせ、ローソク石を立ててその上に磁石を配置してありました。発見例としては中性の城郭などがありますが、近世の寺院建築でその全容が明らかになったのは今回が初めてです。この貴重な以降は現地ほぞんすることになり調査後埋め戻ししました。ただし新しい基礎は遺構に荷重をかけないよう工夫してあります。
 昭和60年(1985)11月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東葛西1-45-29

 下今井香取神社
本宮は千葉県佐原市香取に鎮座し経津主大神を御祭神としてお祀りしております。
大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島大神(鹿島神宮)と共に出雲の国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸し荒振る神々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、又、東国(現関東)開拓の大業を完遂されて平和国家の建設と民生の安定、福祉に偉大なる御神意を顕された。(香取神宮由緒による)
下今井香取神社は経津主大神を御祭神とし、毎年10月15日を御祭礼日と定め、町内氏子各位の御安泰と御繁栄を御祈願しております。
本殿の御造営は記録に載ってないが江戸時代中期と言われ明治6年(1873)に改修が行なわれたと言い伝えられ、その後補修をしつつ、平成7年(1995)7月氏子様ほか関係各位の奉納を頂き大改修が行なわれました。又同時に社務所も新築され現在に至っております。
尚、平成18年(2006)10月境内に水屋を建立し御参拝の皆様がお浄めし、尚一層神神しくお参りする事ができるようになりました。
境内には水神様(水波之女神)をお祀りし毎年7月15日を御祭礼日と定め水難防止を御祈願致しております。
毎年12月31日大晦日にはお炊き上げを行い、1年間の不浄を御祓いし、除夜の鐘と共に新年の初詣を行なっております。
経津主大神の御神徳は勝運の神、心願成就、交通安全の神、災難除けの神として多くの人々に御参拝を頂いております。
下今井香取神社は長島町、桑川町(旧町名)との境に在り境の宮とも言われております。
 平成15年(2003)1月(平成18年〔2006〕増修) 下今井香取神社 氏子中
 





 


所在地 江戸川区東葛西8-22-1 (東葛西コミュニティ公園)

 東葛西土地区画整理事業竣工記念碑
 かつての東葛西は、潮の香、波の音、そして縦横に水路の流れるのどかな田園地帯でありました。
 昭和30年代から始まった、天然ガス採取や地下水の汲み上げは、著しい地盤沈下をまねき、東京湾の海水が逆流するなど、耕作不能な土地となりました。
 昭和40年(1965)、土地区画整理事業の都市計画決定にあわせ、地域自らのまちづくりを目指しました。地域の思いを結集するために時間を要しましたが、昭和62年(1987)、土地区画整理組合を設立し、事業を開始しました。
 以来、20年あまりに及ぶ事業により、まちは全く装いを新たにその姿を現しました。
 ここに、新しく居住する人たちも増え、東葛西小学校や東葛西コミュニティ会館を招致することができました。
 これは、組合員の熱意と郷土愛、そして東京都及び江戸川区との協働のまちづくりの結晶であります。
 この私たちの誇りとするまちづくりを後世に伝えるとともに、かがやく未来を祈念し、ここに記します。
 東葛西土地区画整理組合 理事長 篠原肇夫


所在地 江戸川区東葛西3-3-16 (清光寺)

 青柳三酉筆子塚
 東葛西の清光寺の墓地には、表裏を平に磨いた厚さ10cmほどの自然石に「青柳譲教三酉信士霊」と刻んだ墓石があります。
 これは俗名青柳三酉の墓で、背面に「本邨筆子中」とあり、明治12年(1879)9月の三酉没後にその生徒たちによって建てられたと考えられます。
 青柳三酉は、文久2年(1862)長島村で寺子屋「長運堂」を開業し、読み書きを教えました。平井の田口初右衛門の開業より50年ほどおくれますが、農家を借りて開業していた寺子屋としては、古いもののひとつと言えます。
 明治に入ってからも教授を続け、明治6年(1873)からは家塾として引き続き教授にあたり、明治12年(1879)9月29日に69歳で亡くなりました。家塾開業時の生徒は、男子22名、女子14名の36名でした。家塾というのは、明治5年(1872)に発布された学制のなかに「私宅ニ於テ之ヲ教ルモノハ之ヲ家塾トス」とあるように、それ以前の寺子屋にあたります。






所在地 江戸川区東葛西6-3-1

 地下鉄博物館
  東京地下鉄と創設者(地下鉄の父)早川徳次
1914年(大正3年)、早川徳次は欧米の「鉄道と港湾」の調査研究のため、ロンドンを訪れました。網の目のように発達する地下鉄網を目のあたりにし、これからの東京の発展には地下鉄が不可欠だと考え、欧米各地の地下鉄を調査研究し、2年後に帰国します。
 自ら地質・湧水量の調査をはじめ、上野や銀座の交差点に立ちこ交通量の調査を行い、反対者や競争相手が現れる中、協力者や資金を集め、東京地下鉄道株式会社を創設しました。
 そして1927年(昭和2年)、日本最初の地下鉄を上野~浅草間(2.2km)に開通させ、彼の夢は結びました。

  Tokyo Underground Railway And its founder
      (Father of Japanese subway)
      Noritsugu HAYAKAWA
In 1914,Noritsugu HAYAKAWA visited London to conduct a research study of "railway and harbor" in Europe and the Unaited States.
Deeply impressed by extensively developed subway network in London,he was convinced that an underground railway would be indispensable for the development of Tokyo in the future.
He dedicated himself to research study of subways in Europe and the United States and returned to Japan 2 years later.
He started by investigating the nature of the soil and underground water,and also studied the volume of traffic at the crossing of Ueno,Ginza and other streets in Tokyo.Despite the existence of opposition and competitors,HAYAKAWA was able to gather together collaborators and raise funds to establish the Tokyo Underground Railway Company.
In 1927,the first subway in Japan opened between Ueno and Asakusa (2.2km) and his dream finally came true.

ホームページ ⇒ http://www.chikahaku.jp/
















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