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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区鹿骨1-25-23

 真言宗豊山派で、金霊山神明寺と号します。中興開山は享禄3年(1530)円海律師といわれています。本尊は阿弥陀如来をまつっています。元禄2年(1689)に火災で焼失したために、旧鹿島神社の南の地から、ここに移転しました。江戸幕府8代将軍徳川吉宗の鷹狩りでは、将軍の小休所になりました。



 ■板碑・徳治3年(1308)戌申4月日銘
昭和57年(1982)2月指定
江戸川区指定有形文化財・歴史資料
当寺の墓地より出土したもので、徳治3年(1308)の銘が彫られています。
 ■板碑・応長元年(1311)12月銘
昭和59年(1984)2月指定
江戸川区指定有形文化財・歴史資料
当寺近くの祠に祀られていた、応長元年(1311)の銘を持つ板碑です。現在は当寺に納められています。
 平成13年(2001)11月 江戸川区教育委員会
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所在地 江戸川区鹿骨3-1

 この鹿見塚のあるあたりは、昔から鹿骨発祥の地といわれています。伝説によると、戦国時代のころ、興亡のはげしい世の中を離れ、安住の地を求めて、石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓しました。ある日のこと、日ごろ尊崇している鹿島大神が常陸(茨城)から大和(奈良)に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でたおれたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられています。



 昭和42年(1967)8月、氏子中によって「鹿骨発祥の地・鹿見塚」の碑が建てられています。
 台座はコンクリート三段組で高さ98センチメートル、碑石は高さ81センチメートル、幅52センチメートル、厚さが13センチメートルあります。
 現在の鹿見塚神社は昭和48年(1973)に再建築されました。
 昭和52年(1977)11月 江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区鹿骨4-20-1

  日蓮宗
 妙高山 本城寺

 本城寺本堂

 本城寺堂宇


所在地 江戸川区鹿骨4-2-3

  もっとい不動
真言宗豊山派 
 本命山 密蔵院 明光寺


                                     えんま大王

 この大王、人類史上初の死者なり。よってあの世の大王となる。他に9人の王たちを従え、死者を裁く権限を有する。
 私たちは死んでのち35日目には、この王の前に立ち、生前についた数々の嘘を調べられる。
 この場においても凝りもせず虚言すれば、ただちに舌を根こそぎ抜かれる。なぜ嘘が見抜けるかといえば、この王、死者の生前の善行悪行がもれなく記載されている「えんま帳」を持つがゆえである。
 嘘をついても屁と思わず、否それをも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。
 心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。
 「どうか私のついた嘘を水に流してください」と。
 もっとい不動


                  陸軍上等兵小宮康雄墓


所在地 江戸川区鹿骨4-9-17

 鹿島神社  
創建 奈良時代推定考察1200有余年前
御神徳 家内安全・攘災招福・身体健全・殖産・縁結・心願成就
御本殿(神明造) 明治14年(1881)12月造営
拝殿 大正8年(1919)造営



 明治維新までは五社神明社あるいは五社神社といわれて、旧鹿骨村の鎮守であった。社殿は寛文6年(1666)に改築せられて円勝院が別当をつとめた。明治5年(1872)11月に社格を村社に列せられた古社である。
 

神楽殿 昭和37年(1962)造営

 これは本村の草分けとなった石井長勝・田島・中代・牧野・別系石井姓の五氏が入植したとき、それぞれの氏神を合祀して建てたもの伝えられている。また村の口碑によると、昔常陸の国鹿島郡の鹿島大神が、大和国奈良の春日へお移りになる途中、大神のお供をしていた神鹿が急病でたおれたので、村人たちがていねいに葬って祀ったのが鹿見塚で、村人たちはこれを奇縁として、武甕槌命の分神と天照大御神ほか三神を勧請して一社を建立し、鹿島神社と名づけたともいわれている。
 平成19年(2007)3月 江戸川区教育委員会

 末社 稲荷社

 末社 水神社

摂社(三社称)日枝神社 昭和63年(1988)2月造営
         須賀神社 昭和63年(1988)2月造営
         胡録神社 昭和63年(1988)2月造営
末社      稲荷社   昭和44年(1969)2月造営
         水神社   昭和初期 不詳

宝蔵庫 平成13年(2001)10月完成
大鳥居(神明鳥居) 明治26年(1893)1月建立
御神燈 二基 明治9年(1876)2月奉納
狛犬 壱対 明治29年(1896)2月奉納
御手洗鉢(浄心) 文政6末年奉納
さし石 最大170キロ 江戸時代~昭和初期
 平成14年(2002)5月吉日之記

 日露戦役之碑 戦没者 三桂 明治39年(1906)5月建立

 忠霊塔 戦没者 四十七桂 昭和41年(1966)4月建立

 鹿島神社改築記念碑 大正8年(1919)建立

 俳句の碑 明治9年(1876)建立

 土地改良完成記念碑 昭和43年(1968)12月建立


 20有余年の歳月を経て完了された鹿骨土地改良区の地域は、大東京の東端に位置し、野菜と園芸の生産地として、明治、大正、昭和の今日まで、都民の日常生活に必要な野菜の宝庫として知られ、又日本一の園芸の生産地でもあった。四季それぞれの花が供給され、この花により人心は安らぎ、すべての人類に喜びと感謝の意をあたえていた。然るにこの偉大な産業の地にも太平洋戦争による敗戦と云う事実が、この平和な地に異変をもたらした。国破れて山河あり と云う如く、ある者は家を焼かれ、土地は荒廃されて見る影もなく、地域住民の苦しみは並々ならぬものであった。吾等住民は此の惨状を挽回する為には、大きな苦痛や困難を乗り切らねばならなかった。何と云っても、地域復興の為にこの荒廃された土地と戦うことだ。この時地元有志は敢然として立上がり、土地の自力開発に決起する事に賛成された。そして昭和34年(1959)12月26日、鹿骨町外5ヶ町よりなる土地改良区を設立した。鹿骨町、松本町、谷河内町、新堀町、上篠崎町及び西一之江町の一部で総面積129.34ヘクタール、此の広大な地域が一致団結、発起人並に組合員334名の者が文字通り、日夜をわかたず改良事業に献身された。理事会は組合の最高機関として、各委員会に諮問し、完全なる土地改良の実現に努力され、工事委員会は各道水路を整備し、明るく住みよい町造り完成のために努力した。換地委員会は組合員の土地に対して、その面積に対し公平なる換地の実現を目的とし、評価委員会は全ての物件の評価に対して、不平のない事を目的として行われた。尚登記事務等も組合職員の努力により昭和46年(1971)12月27日ついに完成された。此の土地改良区も幾多の困難を克服して、狭曲な農道や灌漑用排水路も全く旧態を一新し、時代の要請に対応される鹿骨区民館、鹿骨中学校、東京都随一を誇る化学消防署等三大公共施設の用地もきまり、工事は各施設共建設の第一歩を踏み出しているのである。
 省みて、此の土地改良事業は如何に困難であり、実に偉大なる事業である事を痛感すると共に、此の事業完成に御協力下された都の職員、区の職員の良き御指導並に組合役員及び組合員の一致協力の賜と思い、ここにその感謝と喜びを後世に残す事を目的として、この碑を建立する次第である。
 昭和52年(1977)11月吉日
清算法人 鹿骨土地改良区
清算人代表 川手与八
会計清算人 中代伊治
清算人    岩楯泰ニ
         森武義
         高橋成子
         中代喜四郎
         中代源之助
         村山幸四郎 

 はんの木会の碑

 神鹿像


社叢(18種類)直径10c以上205本最大欅直径1.1m目通3.3m


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