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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区東小岩2-2-4

 真言宗豊山派で五社山明寿院と号し、天文5年(1536)宥唯上人が開山しました。本尊は鎌倉時代に作られた木造阿弥陀如来立像で、寺宝として文政12年(1829)に政寛和尚が伝法灌頂を行った時の両界曼荼羅を所蔵しています。明治15年(1882)に区内で2番目の公立小学校「明物小学校」(現在の小岩小学校の前身)が本堂を借りて開校したので区登録史跡となっています。
 小岩生まれで近代相撲の開祖といわれる第44代横綱栃錦の菩提寺でもあります。


     法印中岳筆子塚・法印政寛筆子塚(ともに区登録有形文化財)

 江戸時代、住職の中岳と政寛は寺子屋師匠として近村指定の教育にあたりました。成長した筆子(弟子)が師匠の供養のために建てた筆子塚が山門の脇にあります。


・立羽不角の墓(区登録史跡)
 立羽不角(1662~1753)は江戸貞門派の俳諧師で小岩の出身といわれます。

 平成6年(1994)3月  江戸川区教育委員会
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                                       仁王門

所在地 江戸川区東小岩2-24-2

 善養寺は、真言宗豊山派で星住山地蔵院と号します。室町時代の大永7年(1527)山城(京都)醍醐山の頼澄法印が霊夢のお告げによって小岩の地を訪れ、堂宇を建立したのがはじまりと伝えられています。しかし、永正6年(1509)の柴屋軒宗長『東路のつと』に当寺の記事があることから寺の草創は寺伝よりもさかのぼるものと考えられます。慶安元年(1648)徳川家から寺領十石の御朱印を受けた名刹で、現在の本尊、地蔵菩薩は江戸時代の作です。境内に不動堂があり、「小岩不動尊」とも呼ばれています。



 境内には『影向の松(ようごうのまつ)』『天明3年(1783)浅間山噴火横死者供養碑』『小岩不動尊逆井道向石造道標』『小岩不動尊市川道向石造道標』『横綱山』『傘の碑』があります。









                                         力石


                                                            影向の松



所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

天然記念物 影向の松(ようごうのまつ)
 江戸川区登録天然記念物 昭和56年(1981)1月登録
 東京都指定天然記念物 大正15年(1926)4月指定

 東西の枝の長さ約30m、南北28mにおよぶこの巨大な松は樹齢600年と推定され、繁茂面積では日本一を競います。「影向(ようごう)」とは神仏が姿をあらわすという意味です。



 この松は、樹齢600年ともいわれ、枝の広がりの大きさと美しさは、全国屈指のものである。延享2年(1745)に書かれた「星住山星精舎利記」には、当時すでに、境内七尋五丈の老松であったことが記されている。この松と並んで仁王門の左手には、名松「星降り松」があったが、昭和15年(1940)に枯れ、今のは二代目である。文豪大町桂月の紀行文「東京遊行記」の一節に「-山門の右に鐘楼あり。その前に、一大老松の横にひろがる者あり。凡そ十間四方に及ぶ。支柱百を以て数ふべし。これを影向の松という。立てる星降りの松に、坐れる影向の松を加へて、東京附近松の奇観は、この寺に尽きたり-」と。
 この松は、大正15年(1926)4月、東京都の指定天然記念物となった。

 昭和53年(1978)7月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

 昭和55年(1980)9月7日、この庭で行われた子供相撲大会に、小岩出身の名横綱 栃錦関(春日野理事長)が一門の、栃赤城、舛田山、栃光らの関取衆をつれて参加されました。
 それから平成2年(1990)まで春日野さんは毎年9月の大会にお出になり後輩達を励まして下さいました。
 この山は、その土俵の土で作った山です。郷土の先輩大横綱のはげましに答えて頑張りましょう。

上って下りて又のぼり 
  足腰きたえて 元気な子

 子供相撲主宰団体 入谷 友交会

山上からのの眺めは、素敵です。


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

 小岩、特に下小岩入谷(現東小岩2・4丁目)付近は、かつては和傘づくりが盛んに行われ、その販路は全国に及んでいた。小岩で傘が作られるようになったのは、一説では里見方の落武者が、此の地で傘張りで生計をたてたのが始まりといわれるが、実際に広まったのは江戸時代で、青山付近に住む小録の御家人が、内職として傘細工を行っていたものを、小岩の村人がそれに師事して技術を習得し、農閑期に副業としてとり入れたのが最初のように思われる。その後、明治後期より大正末期が最盛期で小岩の傘は「東京の地張傘」と称され、特に蛇の目は高級品であった。
 この碑はこれら地張り組合員の中で、特に業界に功績のあった、川の竹松氏を讃えるために、昭和5年(1930)3月建立されたものである。

 昭和53年(1978)7月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

   江戸川区登録有形文化財、昭和56年(1981)登録
   東京都指定有形文化財、昭和48年(1973)7月指定

 天明3年(1783)7月6日から8日にかけて浅間山が大爆発をおこした。関東一帯に大降灰があり浅間山麓には山津波がおこり多くの村落、人家が押し流された。多数の死者が出て、その死体は遠く、この近くの江戸川の中洲に流れついた。地元、下小岩村の人々はこの死体を収容し手あつく寺内の無縁墓地に埋葬した。寛政7年(1795)の7月に十三回忌をいとなみ、この供養塔を建て、その霊を弔った。
 昭和30年(1955)ごろからこの碑は行方不明になっていたが昭和47年(1972)に寺内で発見され、ここに再建されたものである。

 昭和48年(1973)3月  江戸川区教育委員会

             小岩不動尊逆井道向石造道標
 江戸川区登録有形文化財、昭和58年(1983)3月登録

所在地 江戸川区東小岩2-24-2  (善養寺)


             小岩不動尊市川道向石造道標
 江戸川区登録有形文化財・昭和58年(1983)3月登録

2基とも当寺への道をしめす道標です。


所在地 江戸川区東小岩6-15-15

 小岩神社
 旧中小岩、下小岩村の鎮守です。江戸時代には神明社、または五社明神社とよばれていましあ。天照大神、八幡、春日、住吉、玉津島の五座が祀られています。
 もとは千葉県の行徳にあり、天文5年(1536)に下小岩村に社を移し、寛文11年(1671)には、古社に縁のあった酒井雅楽頭と板倉筑後守の両人から寄進を受け、本殿と拝殿を造営しました。
 当社にはかつて5つの摂社があり、天保11年(1840)に摂社の一つであった現在地へと本社を移しました。明治時代になって小岩神社と改称しました。
 明治37年(1904)、老朽化のため拝殿と幣殿を再建しました。境内に稲荷大明神と和魂神社(小岩の戦没者をまつる)等があります。
 平成23年(2011)3月改訂 江戸川区教育委員会





 小岩神社には『わらじ石』、『田邊荘太郎表徳碑』、『改築記念碑』、『力石』、『和魂神社』、『稲荷神社』、『浅間神社』があります。

 
                                   神楽殿           




 


所在地 江戸川区東小岩6-15-15 (小岩神社)

 改築記念碑
當社は七百年前東葛西領行徳に御鎮座せる五社明神を天文5年(1536)(室町時代)小岩村萬福寺に御動座申上げ天保11年(1840)庚子9月現在の地に御遷座申上げ今日に至る尚當社には摂社五社(1丁目より5丁目に鎮座せる神社)あり畏くも伊勢皇大神春日大神八幡大神住吉大神玉津島媛大神を御奉祀申上げその廣大無邊の御神徳は氏子崇敬者の上に日夜加護せらる旧社殿は寛文11年(1671)9月酒井雅楽頭板倉筑後守より古社の故を以て本殿及拝殿の御造営を寄進せられたるも老朽甚しく氏子一同恐懼惜措くとこを知らず氏子多数の要望により改築奉賛会を結成し同会役員の献身的奔走により氏子崇敬者多数の賛同を仰ぎ昭和37年(1962)10月拝殿へ遺伝の竣工及境内整備の完成を見るに至れり之因より御神徳によるとはいえ氏子崇敬者の至誠なくして能くこのこのことあるべからず因って茲に篤信を録して記念とす
 宮司 関秋夫  穪宣 関保規



所在地 江戸川区東小岩6-15-15 (小岩神社)

 田邊荘太郎表徳碑

君ハ小岩村大字中小岩ノ人夙ニ名望アリ資性英邁温厚篤實公共心ニ富ミ未曾テ人ト爭ハス其ノ温情能ク小児ヲ馴レ親マシム而モス毅然トシエ冒スヘカラサルノ風アリ明治初年少壮ニシテ村民ノ嘱望スル所トナリ村治ニ盡瘁ス爾来常ニ其ノ要職ニ在リ明治23年(1890)町村制施行セラルルヤ挙ラレテ小岩村常設委員トナリ32年(1899)小岩田普通水利組合議員34年(1901)同村会議員38年(1905)同村学務委員42年(1909)小岩小学校建築委員大正4年(1915)東葛西水害予防組合議員上下ノ割及上ノ割普通水利組合議員南葛飾郡会議員等ニ歴任シ其ノ職務ニ忠實ニシテ而モ記臆力ニ富ミ小岩村ノ活字引ヲ以テ称セラル又常ニ敬神ノ志篤ク小岩神社氏子總代トシテ多年神職ヲ助ケテ力ヲ神社ニ致シ衆■シ誘掖シテ神徳ノ宣揚ヲ圖リタルノ功労尠少ナラス由来社交ノ事タル寛大推量以テ人ニ接スルモ猶且怨聲ナキヲ得ス而モ八面玲瓏四方敵ナキ■君ノ如キハ牢ニ見ル所トシテ其ノ村治ニ貢献シタルノ偉績歿スヘカラナルモノアリ惜哉大正7年(1918)7月30日病ヲ以テ歿ス享年六十有九
 大正8年(1919)4月 可亭岡本喜信書






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