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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区西小松川町1-3

    天祖神社の由来
 天祖神社では、旧西小松川村草創の鎮守として、明治初頭まで神明社と称していた。明治5年(1872)11月に村社の社格に列せられる。詳細なる創立年代は、水害の為の書類流失により不詳であるが、神職家の祖先秋元刑部左衛門橘瀧次が仕えていた下総国千葉家より康正2丙年(1456年室町時代)に当所に引き移り神職を務め、子孫代々奉仕し、現在に至る。



 新編武蔵風土記稿によれば、「神明社、村の鎮守 神主秋元式部 吉田家の配下なり 末社稲荷、疱瘡神」とあり、また、葛西誌には、「神明社村の鎮守なり 鹿島、香取大神ニ座を相殿に祀る 神主秋元式部持」と記載せられている。
 当社は、神明造りの社殿構造上、氏子有志の浄財をもって屡々社殿を改築し、その都度の棟札を現在まで保存している。寛永5年(1628)12月、享保14年(1730)10月、宝暦4年(1754)3月、寛政5年(1793)11月、文化13年(1816)3月、昭和30年(1955)の5枚の棟札を所蔵している。寛永5年(1628)の棟札の表面には、次の如く記されている。
「奉遷宮唯一神道天下泰平氏子繁昌候
天下領三代将軍大御所様家康様 公方様秀忠様 当将軍 家光様 御手代伊奈半拾郎殿 目代富田半右衛門 目代 宇田川喜衛 当村名主宮甚左衛門 氏子惣百姓 神主秋元民部少輔橘基忠」



 現在の社殿は、慶応3年(1867年 15代将軍徳川慶喜公が命じ天皇陛下に大政を奉還した年)に造立せられたものに、昭和30年(1955)増築したものがもととなっている。平成13年(2001)宮司・氏子総代・町内氏子有志の浄財をもって、本殿の土台を始めとする全面改修工事を実施し、平成14年(2002)5月には境内で落成式典が行われた。
 境内社に文化5年(1808)6月創建された稲荷神社及び疱瘡神社(創建年代不詳)があるが、ともに平成13年(2001)の改修工事の時に新築された。

 稲荷神社

  天祖神社  旧西小松川村総鎮守
御鎮座 康正2年(1456年室町時代)
主祭神 天照大神
  御神徳(家内安全、家運隆昌、病気平癒、安産、厄除け、交通安全、その他生活全般)
副祭神 香取大神(経津主大神)
  御神徳(国家鎮護、家内安全、産業振興、海上守護、心願成就、縁結、安産、平和・外交、勝運、交通安全、災難除け)
      鹿島大神(武甕槌大神)
  御神徳(武道・競技等の必勝成就、旅行安全、五穀豊穣、殖産、安産、事業の創業、新規開拓、開運)
末社  稲荷神社(境内向かって右)
      御神徳(五穀豊穣、商売繁盛祈願)
     疱瘡神社(境内向かって左)
      御神徳(天然痘、皮膚病、にきびなどの快癒及び予防祈願)

 疱瘡神社



  四つ段の道標(秋元邸内)

 四つ段とは、旧行徳道と旧千葉街道の交差点で、現在の小松川橋の少し上流の、中土手寄りの地点にあった。銘文からみるとこの道標は、文化2年(1805)に建立された大事な道しるべであったが、大正2年(1913)の荒川開さくにより、現地保存が不可能になったので、当天祖神社隣接の庭内に移転したものである。
 頭部の覆蓋は失われてしまったが、願立は加納惣内で、高さは台座から79センチメートルと小形だが、四面に銘文が刻まれているのは、区内では異色で珍しいものである。
   銘文
大山石尊大権現   比向キ 市川道
秩父三峯山大権現  比向キ 浅草道
讃升金比羅大権現  比向キ 行徳道
遠州秋葉山大権現  比向キ 両国道
 昭和53年(1978)11月 江戸川区教育委員会
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所在地 江戸川区西小松川町11-17

 浄土宗で、無量山西方寺と号します。鎌倉光明寺の学僧、應誉良道上人が天文8年(1539)一宇を建立して、阿弥陀如来をまつったのがはじまりです。
 当寺は、享保2年(1717)に将軍吉宗が放鷹のため当地を訪れたときに将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。
 吉宗は、頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鶴が多く飛来していたことによると思われます。吉宗、家重、家治の3代で、100回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台印を御膳所にしています。



◆木造阿弥陀如来立像(区指定有形文化財)
 本尊の木造阿弥陀如来立像は、技法から鎌倉時代の制作と推定される秀作です。寄木造りで、脚部を別材でつくり、体部に差込む珍しい形式をもち、彫刻技術もすぐれています。

◆加納甚内の墓(区登録史跡)
 墓地の南西隅に加納甚内の墓があります。甚内は綱差役として将軍鷹狩りの御用をつとめたほか、新田開発者でもありました。享保年間に幕府が新田開発を奨励していた時、甚内はこれに応じ、西小松川村の菅野を開発しています。この新田は「綱差新田」、明治以降は「綱差耕地」と呼ばれ、荒川が開削されるまで残っていました。甚内は寛保3年(1743)に亡くなりましたが、その子孫は代々甚内を称して、綱差役が廃止されるまで、その役を世襲しました。
 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会


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