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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区西小松川町11-17

 浄土宗で、無量山西方寺と号します。鎌倉光明寺の学僧、應誉良道上人が天文8年(1539)一宇を建立して、阿弥陀如来をまつったのがはじまりです。
 当寺は、享保2年(1717)に将軍吉宗が放鷹のため当地を訪れたときに将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。
 吉宗は、頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鶴が多く飛来していたことによると思われます。吉宗、家重、家治の3代で、100回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台印を御膳所にしています。



◆木造阿弥陀如来立像(区指定有形文化財)
 本尊の木造阿弥陀如来立像は、技法から鎌倉時代の制作と推定される秀作です。寄木造りで、脚部を別材でつくり、体部に差込む珍しい形式をもち、彫刻技術もすぐれています。

◆加納甚内の墓(区登録史跡)
 墓地の南西隅に加納甚内の墓があります。甚内は綱差役として将軍鷹狩りの御用をつとめたほか、新田開発者でもありました。享保年間に幕府が新田開発を奨励していた時、甚内はこれに応じ、西小松川村の菅野を開発しています。この新田は「綱差新田」、明治以降は「綱差耕地」と呼ばれ、荒川が開削されるまで残っていました。甚内は寛保3年(1743)に亡くなりましたが、その子孫は代々甚内を称して、綱差役が廃止されるまで、その役を世襲しました。
 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会
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