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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区東葛西6(東京メトロ東西線 葛西駅バスターミナル)

   沿革
 葛西は東京都江戸川区南部(旧東京府南葛飾郡葛西村を中心とする)の地域で、江戸時代は桑川村と長島村、東宇喜田村、西宇喜田村に分かれていましたが、1889年町村制が施工され、四つの村が合併して葛西村となりました。
 いくつもの時を積み重ね、戦後の高度経済成長期に入ると、時代は葛西の地を田畑から住宅地へと変貌することを求めるようになりました。
 このような流れのなか、未来に向けた新しい葛西のまちを築こうと、1968年葛西土地区画整理組合準備会が結成され、1969年12月6日に組合設立認可となり、「葛西土地区画整理組合」が誕生しました。
 施行区域は、葛西1丁目全部及び長島町の一部で、東は江戸川を臨み、西は長島、新田組合の施行区域に接し、南は葛西2、3丁目に北は長島町の一部につながる、約93ヘクタールという広大な施行面積となりました。
 おりしも工業化の進展と地下水の汲み上げにより地盤沈下がすすむなか、蓮田や水田を切り開き、道路や公園を造り、軟弱地盤でヘドロと戦い宅地を造るという難関な工事となりました。
 わが葛西を住みよいまち、快適に暮らせるまちにすることを目指して、心を込めて土を盛り続けたのです。
 1969年3月29日地下鉄東西線が開通し、葛西役の乗降客数も日を追うごとにふくらみ、1971年には1日1万人に達し、2007年には、なんと9万人にもなりました。
 今、葛西駅周辺のまちなみが整備され、環状7号線や放射16号線などが開通し、葛西のまちが、魅力あるまちへと、その姿を変えています。 
 ここに発足以来約40年、苦難の歳月を経て、終着点にふさわしい健全なまちの誕生を願い、ともに歩んできた仲間、組合員の熱い思いを刻み、次の世代へ繋ぐため記念碑を建立します。
 2008年9月吉日 葛西土地区画整理組合

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所在地 江戸川区東葛西7-17

 旧東宇喜田村中割の鎮守で、慶安2年(1694)邵値阿闍梨が天照大神の分神を勧請したのが始まりとされてます。もとは神明社とよばれ、明治5年(1872)に天祖神社と改称されました。当社は、区画整理に伴う道路建設等により平成元年(1989)3月、東葛西9丁目5番地から現在地に移転し、社殿も新築されました。
 境内には『中割の富士塚』があります。



  天祖神社の棟札(区登録有形文化財)
 旧本殿内部に保有されていました、12枚あるうち、最も古いものは、『慶安2年9月廿9日』の年記と、『邵値法印』の名が記されています。区内旧村在住者の大工の名、各時代の氏子の名が克明に記されており、中割築の村落構成の様相をうかがうことができます。(保管場所・江戸川区郷土資料室)
  平成2年(1990)3月  江戸川区教育委員会



  天祖神社沿革
 本社は慶安2年(1649)旧東宇喜田村中割の鎮守として昇覚寺開祖邵値阿闍梨が、天照皇大御神を勧請し建立したことに始まる。別当は昇覚寺がこれを務め
、創建時代は「大名神宮」と称し後に「神明社」「神明宮」と改称される。
 明治5年(1872)本社が村社となるに及んで、別当は神職に委ねられ名も天祖神社と改称し、爾来、本村の氏神守護神社として、多くの氏子を擁し敬虔な信者を中心に、近村に及ぶ信仰をあつめるに至った。
 本社は創建以来、数度に亘り再建されたが、今回、区画整理事業都市計画街路補助道建設棟の事由により東葛西9丁目5番1号から余儀なく換地先現在地へ移転。5たびの造営となり昭和63年(1988)3月から工期1ヶ年余を費やし、社殿、水屋、社務所を新築。鳥居、狛犬、敷石を荒t画にして、端垣を増設植樹を為す。灯篭・富士塚・疱瘡神・顕彰碑等はその侭移転整備した。造営にあたっては、町民挙ってこの一大事業に深大な支援協力を得た。併せて篤志家のご厚志を仰ぎ、勧進した浄財と葛西土地区画整理組合からの移転補償金を以てこれに充て、平成元年(1989)3月竣工をみる。この業績を記念し経緯を永く沿革としてしるす。
  平成元年(1989)3月吉日   中割天祖神社建設委員会


所在地 江戸川区東葛西7-17 (中割天祖神社)
  
江戸川区登録有形民俗文化財
 中割の富士塚
      


 この富士塚は、昭和初年に、葛西講(富士を信仰した人びと)によって旧天祖神社境内に築造されたものです。神社の移転とともに、ここに移築されました。
 平成2年(1990)3月  江戸川区教育委員会

 

所在地 江戸川区東葛西1-23-19 (桑川神社)

江戸川区登録有形民俗文化財(民俗資料)
 桑川の富士塚
     昭和58年(1983)3月登録



 富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
 この桑川の富士塚は、昭和4年(1929)に、旧桑川村の山玉参拝講の人たいが築造しました。高さ約2メートルの塚で、全体はボク石(溶岩)
と丸石で覆われています。丸石の中には、力石も含まれています。塚の中腹には、昭和41年(1966)の記念銘のある石祠がまつられ、登山道は丸石の階段になっています。
 平成14年(2002)1月 江戸川区教育委員会





所在地 江戸川区東葛西1-38

 永禄5年(1562)に創建された旧鍬から村の古刹で、浄土宗、一向山無量院と号します。開山は、誠蓮社法誉上人清教大和尚(元亀3年〔1572〕寂)です。本尊に、阿弥陀三尊像をまつっています。
 参道入口には万治3年(1660)の銘をもつ地蔵菩薩像庚申塔、門内にも同年銘の阿弥陀如来像庚申塔があります。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が抜け出て天帝に罪過を告げるという道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建立されました。江戸時代には、悪疫を調伏する青面金剛を本尊とすることが多くみられましたが、初期には阿弥陀や地蔵なども刻まれました。
◆地蔵菩薩像庚申塔(万治3年〔1660〕銘・女人講中)
◆阿弥陀如来像庚申塔(万治3年〔1660〕銘・男子講中)
ともに江戸川区有形民俗文化財
 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区東葛西2-28-16

 曹洞宗で海潮山と号し、本尊は観世音菩薩です。承和14年(847)慈覚大師の創立といわれ、中興開山は栄室寿盛で寛永3年(1626)に入寂しました。
 縁起によると、慈覚大師が唐から釈尊の正法を伝え受けて帰朝の際、大時化にあい難破しそうになりましたが、観世音菩薩の光明が輝いて風は止み、この地に無事上陸できました。
 そこで、大師は尊像を栴檀に刻み堂宇を建て、本尊として祀ったのがこの寺の始まりと言われています。
 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会

 境内には『板碑』があります。


所在地 江戸川区東葛西2-28-16 (梵音寺)


江戸川区指定有形文化財
 梵音寺の板碑


 古くから境内のお堂の中に納められ、お地蔵様と一緒に祀られてきました。製作は文保元年(1317)6月で、この地域の鎌倉時代のようすを知る上で貴重な歴史資料です。
 平成3年(1991)3月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東葛西2-29-21 

 真言宗豊山派で、医王山応心院と号します。本尊の木造薬師如来坐像は、眼病に御利益のある「薬師様」と知られています。この薬師如来坐像は仏師春日が養老3年(719)河内国(大阪)春日野で制作したもので、仁平2年(1152)空円上人が開山のとき、ここに安置したと伝えられています。
 当寺は応永18年(1411)に頼重上人によって、中興されました。



◆葛西大師まいり(区登録無形民俗文化財)
 当寺は葛西大師まいり(長島・桑川組)の巡拝する霊場の一つとなっています。この大師まいりは、弘法大師をまつる霊場を巡拝し、万霊を供養し、二世(現世と来世)の安楽を願います。江戸川区では、古くからこうした大師巡拝がさかんでした。
 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東葛西2-30-20 

 文亀元年(1501)寂の良範法印を開山とする旧長島村の古刹で、真言宗豊山派、覚王山神宮寺と称します。
 本尊には大日如来坐像をまつり、参道入口に観音菩薩像庚申塔があります。

 


◆観音菩薩像庚申塔(寛文8年〔1668〕銘)
江戸川区登録有形民俗文化財
 舟型光背をもつ観音菩薩像で、「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と刻まれています。三尸は、中国の道教に由来するもので、人間の体内にいて、60日に1度めぐってくる渾身の日の夜に、眠った人の体内から抜け出して天帝に罪過を告げにいく虫と信じられています。江戸時代の庚申信仰の本尊の多くは、悪疫を退治する青面金剛が刻まれましたが、初期には阿弥陀や地蔵、観音なども刻まれました。
 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会




所在地 江戸川区東葛西2-34-20

 旧名茂呂神社といい、旧長島村の鎮守でした。別当の自性院が文久年間(1861~1864)に火災にあい、古記録を消失したので詳細は不明ですが、400年以前の古社といわれています。祭神は経津主命で下総の香取神宮から分神されたものです。本殿と拝殿の彫刻は手のこんだ立派なものです。
 拝殿の東側にある八雲神社はもと同村の西部地区に祀られていましたが、昭和26年(1951)にここに移されました。
 境内には大正元年(1912)に建立された「乾海苔創業記念碑」があります。



長島の富士塚(区登録有形民俗文化財)
 富士信仰の一形式として富士山を模した富士塚を礼拝するものがあります。区内には10基あまり残っており、本殿の北にあるものもその1つです。なお、この近くの桑川神社にも昭和4年(1929)に築造された「桑川の富士塚」(区登録有形民俗文化財)があります。
 平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会



 境内には『乾海苔創業記念碑』、『長島の富士塚』、『長島之碑』、『諏訪神社』、『八雲神社』があります。


 葛西蓮根
 かつてこの地帯は、お盆の頃となると見渡す限りの蓮の葉に覆われるほど、蓮根栽培が盛んで、「葛西蓮根」の名は関西や東北市場にまで知れわたり、当神社が建っている大字長島はその中心地でした。
 当地の蓮根は、江戸中期からわずかに作られていたようですが、命じ中頃に田中徳右衛門が優良系統の試作に成功して以来、稲作より蓮根のほうが各段に儲かるとあって、栽培が急速に広まり、昭和40年代まで営々と続いてきました。
 当地は江戸川や荒川が運んできた肥えた土と、深い田が多く、しかも、大都市に近いため、肥料として東京市中からでる下肥(人糞尿)が入手しやすかったので肥料を大量に必要とする蓮根栽培にぴったりでした。まさに都市と農村を結ぶ見事なリサイクルであったわけです。
 柔らかくて歯切れのよい葛西蓮根独特の風味は、見通しがきく縁起物ということもあって、市民に長く愛好されてきました。
 平成9年度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 江戸川区農業協同組合


 THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO Kasai Renkon
 This region used to be a big production area of Renkon(lotus root).In summer,the land was covered all over with dense carpet of lotus foliage as far as it could be seen.The locality Nagashima where this shrine stands was an area of most intensive cultibation.Renowned as Kasai Renkon',it was shipped as far as Kansai or Tohoku markets.
 There was a few of Renkon culture in 1750s. However,since Tokuemon Tanaka succeeded in screening anaexcellent strain of lotus around 1890,paddy rice changed over rapidly to the more profitable lotus and the cultivation was maintained successively over years until around 1965.


所在地 江戸川区東葛西2-34-20 (香取神社)

江戸川区登録有形民俗文化財(民俗資料)
 長島の富士塚
     昭和58年(1983)3月登録



 富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。
 長島の富士塚は、旧長島・桑川両村の山玉参拝講の人たちが、明治41年(1908)に造りました。現在の塚は大正6年(1917)に再築されたものです。塚の南側には「御山築設之由来」と刻まれた碑が建てられ、由来と200名以上の講員がいたことが記されています。塚の高さは約4メートルで、区内の富士塚の中では規模が大きいほうです。頂上には「浅間神社」と刻まれた石碑(明治41年〔1908〕銘)があり、上部はボク石(溶岩)、下部は丸い自然石で囲まれています。今でも、7月1日の山開きと、8月26日のかがり火たきの行事が行われています。
 平成14年(2002)1月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東葛西2-34-20 (香取神社)


 長島の地は古くは太日河ふとひかわ(現江戸川)河口にあたり、国府の湊(又は長島の湊)として、賑わって居り足利時代に戦略地点として北条方の勇将太田新六郎康資がこの地を支配していたと言う。
 また、この長島の地に当時長島高城があり現在に至るも小字として表門、裏門、馬場、宿、堂屋敷等(現清光寺附近)が伝承されている。
 なお、江戸時代は武蔵国長島村と言われていた。
 また、明治に入り長島の地は半農半漁として盛んになり、特に葛西のり養殖及び蓮根作り等は有名であった。
 明治4年(1871)廃藩置県となり幾度かの改正を経て 明治11年(1878)11月2日東京府南葛飾郡葛西村大字長島となる。
 昭和7年(1932)10月1日 市郡併合により大字、小字が廃止され、東京市江戸川区東長島町となり、昭和9年(1934)5月1日長島町となる。
 昭和18年(1943)7月1日東京都制施行により、東京都江戸川区長島町となる。
 昭和54年(1979)11月1日~昭和56年(1981)11月1日の三ヵ年の間に葛西地区全般が現在の住居表示となる。
          (江戸川区史及び東京ふる里文庫史料より)
 昔より親しまれてきた長島の町名がなくなるのを惜しみ、ここに長島の碑を建立す。
  昭和59年(1984)1月吉日
    長島町会長島之碑建設委員

委員長 須原卯一

委員 西野剱吉 西野孝三 西野勇次郎 西野博 渡辺英治 渡辺昇司 吉野嘉一 吉川孝 吉野浩司 宮崎静雄 鹿野武雄 鹿野茂春 森田共一 関口友三郎 西野文子 吉田とよ子 松下きみ 三浦喜満江 品田栄子(イロハ順)

特別協力者 熊川きん

碑文作成者 鹿野元一

     昭和59年(1984)1月吉日建立


所在地 江戸川区東葛西2-34-20 (香取神社)

御祭神 建速須佐男之命



伊弉諾伊弉丹ニ神の御子神また天照大神の御弟神にて神性勇悍 出雲国に矢降ってよくその地を経営され、後世その御神徳を仰ぎ慕う人々によって各地の神社に祀られるようになった。当社は古老からの言い伝えによると、徳川中期約三百年前の創立とされ、葛西誌には稲荷神社と載せられている。その合殿に建速須佐男之命を祀り、古来より病疫退散の守護神として村郷地方の崇敬信仰が篤い。梅雨の季節に疫病送却の祭として天王祭が行われることは御祭神の御事蹟がらも容易に頷かれるところでまことに御神威の顕たかなのをおぼえると共に、本神社を創建した古老の慧眼に信眠せずにはいられない。旧鎮座地は長島町227番地。毎年6月28日、29両日にわたって長島西部地区にて祭典が行われ神輿巡幸式もあって殷■を極めたが碑文に記すように「時代の超勢に遵ひ有志相図り東西融和のため合併合議の機運に到達し」、昭和26年(1951)6月28日現在地に御遷座し長島全町を擧げての奉祝祭が行われた。追って29年には神輿新調委員が組織され幾多の紆余曲折を経て翌30年の例祭には近隣近郷に比肩するものがない程の華麗な神輿2台が完成し全町内隈なく御巡幸が行われた。その後幾多許もなく神輿庫の落成を見るなどして八雲神社の神域も逐年に整理されつつあったが、昭和44年(1969)6月損朽した社殿の改築を要望する声が高まり役員総代一同協心剹力地元有志の後援もあって2年の歳月を費やし荘厳な現社殿の完成を見るに到った。猶昭和47年(1972)11月山車等各種器材倉庫を建設し祭典執行に一層の便宜を図ることとなった。
 昭和47年(1972)12月建立
     香取神社宮司 加藤敦久謹記


所在地 江戸川区東葛西3-3-16

 浄土宗で安照山太子院と号します。文亀2年(1502)徳誉法印が開山しました。
 本尊は阿弥陀三尊の木造立像で、ほかに法然上人像と善導大師の像を祀っています。

◆中世の館・長島高城の推定地
 小田原北条氏が関東一円を支配していた時代の記録「小田原衆所領役帳」に江戸川区内の16の郷村名が登場しますが、その中に「長島高城」があります。時代は下りますが、寛延2年(1749)青葉某の書いた「葛飾記」には、「此所は昔、長島殿と申す城主の城下の湊のよし」と記述されていることから、これが「長島高城」とよばれた中世の館ではないかと推定されます。清光寺のまわりには、城にちなむ小字がとりまくように残っています。このあたりは古くから交通の要衝として栄えた所でもあり、長島高城が館とすれば、現在の清光寺の境域にあったのではないかと考えられます。
 なお、清光寺は、葛西大師まいり(江戸川区登録無形民俗文化財)の巡拝する所の一つです。
 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会



                              関口熊蔵顕彰碑


        陸軍歩兵上等兵 吉野市太郎顕彰碑

 清光寺には『青柳三酉筆子塚』があります。


所在地 江戸川区東葛西3-4-22

 文明年間(1469~1486)以前の草創と伝える旧長島村の古刹です。良範法印(没年・文亀元年〔1501〕)が中興し、当寺第一世となっています。新義真言宗、海宝山地蔵院と号し、本尊には延命地蔵菩薩像をまつっています。文政7年(1824)に20世信剛和尚が堂宇を改築しましたが安政の大地震で屋根瓦が落ち、昭和39年(1964)、現在の本堂に改築されました。



◆庚申塔(寛文3年〔1663〕銘)江戸川区登録有形民俗文化財
 笠付角柱型の庚申塔で、正面に「奉造宝庚申結衆二世安楽」と刻まれ、台座に三猿が描かれています。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が抜け出て天帝に罪過を告げるという道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。門内左側にあります。

 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会




所在地 江戸川区東葛西4-38-9

 天文年間(1532~1554)の創建と伝える旧東宇喜田村の古刹で、真言宗豊山派、海松山と号します。本尊には木造不動明王立像をまつっています。
 
◆波切り不動と雷不動
 葛西沖でしけにあった漁師が、この寺の松にいた竜の発する光で助けられ、残された剣を不動にそなえたことから波切り不動、その不動が大雷雨のときに雷を退治したことから雷不動と呼ばれたと伝えられています。
青面金剛像庚申塔(元禄11年銘)江戸川区有形民俗文化財
 旧東宇喜田村雷の庚申講中によって、元禄11年(1698)に立てられた庚申塔で、悪疫を退治する青面金剛を中心に、ニ童子、四夜叉を配した江戸時代の典型的なものです。文化2年(1805)に修復されたものと思われます。
 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会

 境内には『乾海苔創業記念碑』、『青面金剛像庚申塔』、『雷の富士塚』、『雷不動明王石造道標』、『力石』、『小澤豊吉顕彰碑』があります。


所在地 江戸川区東葛西4-38-9 (真蔵院)

 真蔵院の本尊、木造不動明王立像は、「波切不動」あるいは「雷不動」と呼ばれ、多くの参詣者を集めました。
 この道標は「雷不動」に行くための道しるべで、文政元年(1818)に建立(再建)されました。
 新川河口南岸(東葛西1-48-16先の路上)にありましたが、平成3年(1991)4月に倒壊したため、修復してこの地に移設しました。
 この道標には、新川の曳船のとも綱をかけた跡が残っています。
 


 〈銘文〉
(正面)雷不動明王
(右面)文政元戊寅年6月再建
(左面)従是南十三丁
(背面)海松山第17世鏡融(花押)
     松■忠孝 書
(台座上段)御蔵前講中、神田川
  平成4年(1992)3月 江戸川区教育委員会




所在地 江戸川区東葛西4-38-9 (真蔵院)

陸軍歩兵伍長 勲八等功七級 小澤豊吉 顕彰碑


君小澤銀藏氏長男生於宇喜田町幼頴悟仕親孝昭和六年九月満州事変起■君乃服兵役昭和八年十二月入営獨立守備歩兵第八大隊■從事■勤務■戰各地屢殊功同十一年二月二十四日参加吉林省威虎嶺東南方約十五粁三道■附近之戰飛来貫通君■胸部遂不能起嗚呼悲哉茲建碑而傳忠魂千載之後云爾
 昭和十二年二月二十四日
  陸軍歩兵大佐従五位勲三等 松井貫一撰書


所在地 江戸川区東葛西4-38


    神社の沿革
 本社は古くは明和5年(1769)の昔郷土の鎮守として鎮座いたしておりこの度再度の改築であり今回の改築は都市計画区画整理事業による道路築造工事に伴い神社の移転をよぎなくされ、現在地に再建されたのであります。建物も老朽化されており、改築の時期でもあり地区住民挙って計画に賛成されたのであります。
 施工は神殿水屋新築鳥居狛犬敷石端垣燈籠水神社、八雲神社等付帯事業造営に深大な支援協力を得併せて篤志家の御厚志を仰ぎ勧進した浄財と都市計画局防災計画部市街地開発課からの神社移転補償金を以ってこれに充て平成2年(1990)10月竣工をみる。
 この業績を記念し、経緯を永く沿革としてしるす。
 平成2年(1990)10月27日
 雷香取神社建設委員会



  建設委員会役員芳名
会長   森岩蔵
副会長  森政雄 吉野作次郎 須賀鉄次 森勇 金子邦三
会計   須賀慶 須賀信夫 
監事   森忠一 橋本光雄
宮司   森甚悦



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