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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区春江町2-39-28 (城立寺)

 江戸川区登録有形文化財

 寛文3年(1663)大工三衛門の作で、台座を含め3メートル余りある一石丸彫りの石仏です。台座の銘文によると、田島家の八郎兵衛尉重信が祖先の菩提と衆生の利益のために建立、寄進したとあります。彫りもよく表情ゆたかな仏像です。



     石造釈迦如来坐像(東京六大仏の一つ)由来
 寛文3年(1663)大工三左衛門の作で台座を含め三米(メートル)余りある一石丸彫の区内でも最も大きな石造仏です。
台座の銘文によると田島家の八郎兵衛尉重信が祖先の菩薩と一切衆生の利益の為に造立、寄進したとあります。
彫りもよく、表情豊かな仏像で田島図書の墓の前に位置します。
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所在地 江戸川区西瑞江2-38-7 (大雲寺)

 大雲寺(だいうんじ)



 大雲寺は浄土宗で、長行山専称院と号します。元和6年(1620)凡誉上人が二代将軍秀忠から寺領三千坪を賜って浅草の森田町(蔵前)の地に開山しました。寛文8年(1668)に本所押上(現業平公園東隣り)に移り、さらに昭和6年(1931)現在地に移転しました。歌舞伎役者の墓が多いので、「役者寺」の名で知られています。本尊は、阿弥陀尿来坐像です。






 
   歌舞伎役者墓碑群
    (江戸川区指定史跡、平成18年〔2006〕3月指定)
①市村羽左衛門累代墓(初代より17代合葬、13代は5代尾上菊三郎)
②坂東彦三郎累代墓(3代より7代合葬)
③3代坂東彦三郎家墓
④初代尾上菊五郎供養碑
⑤寺島家門弟一同建立碑
⑥寺島家門弟代々墓
⑦瀬川菊之丞累代墓(初代より6代合葬)
 (江戸時代の歌舞伎狂言作者、初代瀬川如皐を合葬しています)
⑧松本幸四郎累代墓(4代より6代合葬)
⑨中村勘三郎累代墓(初代より13代合葬)
⑩3代中村勘三郎墓
⑪福知家墓
⑫坂東彦三郎墓(初代より2代合葬)



所在地 江戸川区西瑞江2-38-7 (大雲寺)

池田狐村(1801~1866)は江戸時代後期の絵師です。光琳派の酒井抱一(1761~1828)に師事しました。


所在地 江戸川区西葛西南篠崎町2-54

       史跡
 当社は御祭神天照皇太御神を祀り、鎮座年度は不詳でありますが、伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として御鎮座されました。



 御神殿秘蔵の記録によりますと、文化14年(1817)9月に奉納再建し、社名を鎮守神明大神宮と称され、西光寺(当地)住耺權大僧都、智賢により御遷宮奉斎されたとあります。又古文書には安政4年(1858)9月、時の領主源朝臣松平家宗公御代官竹垣三右衛門の時代に、武州国葛飾郡上鎌田村名主芦田平左衛門、年寄芦田一右衛門、年寄嶋村藤左衛門等により社殿を再興したとあります。明治3年(1870)の改正により歴代の神耺は明治5年(1872)11月、東宇喜田村の彦沢詞掌、明治6年(1873)1月より当地高橋智昭詞掌、高橋喜久社掌、高橋安太郎社掌の親子三代と続き、その後、香取茂世、昭和25年(1950)10月から西小松川道ヶ嶋香取神社亀井宮司に至りました。



 明治6年(1873)1月、太政官布告により、社号を天祖神社(村社)と改正されました。160有余年を経た御神殿でありましたが、老朽甚だしく、昭和40年(1965)10月東京オリンピックを記念に氏子崇敬者の総意により、鉄筋コンクリート神明造りの社殿に改築いたしました。厳かに遷座祭を斎行し、広く町内の尊崇を仰ぐ御社として現在に至りました。
 昭和54年(1979)3月吉日  南篠崎天祖神社



 境内には『上鎌田の富士塚』があります。


所在地 江戸川区南篠崎町2-54 (天祖神社)

江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
 上鎌田の富士塚
     昭和58年(1983)3月登録
    


 富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと々霊験が得られるようにと願って築かれました。
 上鎌田の富士塚は、明治19年(1886)に、旧上鎌田村の丸星講の人々が築造しました。塚の高さは、約1.5メートルで、面積は広く、円墳に近い形をしています。頂上には、「浅間神社」の石祠がまつられています。区内の民間信仰、社会、文化、生活を知る上で、貴重な資料です。
 平成14年(2002)1月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区南篠崎町1-1-24 (西光寺)

 永正2年(1505)の草創と伝える旧上鎌田村の古刹で、真言宗豊山派、薬王山蓮華院と号します。本尊には木造阿弥陀如来立像をまつり、本堂脇に薬師堂、鐘楼横に石造線刻地蔵菩薩立像碑があります。

・絹本着色六地蔵菩薩画像(ニ幅)(江戸川区登録有形文化財)
 寺宝のひとつで、六体の地蔵菩薩が金泥によって描かれています。室町時代の作と推定されます。
 
 昭和62年(1987)3月  江戸川区教育委員会


                                地蔵菩薩像庚申塔

万治3年(1660)銘  江戸川区登録有形民俗文化財



所在地 江戸川区南篠崎町1-1-24 (西光寺)

江戸川区指定有形文化財
 石造線刻地蔵菩薩

 磨かれた石の表面に、横線部分を残して他を彫り込む陽刻浮き彫りの技法で、美しい地蔵菩薩が描かれています。背面の署名から、天明年間(1781~1788)頃の造立と推定されます。
 昭和62年(1987)3月 江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区篠崎町3-5-15

 量りしれない喜びを与えて下さる無量寿仏(阿弥陀如来)恵心僧都作を本尊とする 
 当山は金瀧山真徳院無量密寺と号す 上小松村正福寺末 この地に草庵を結んだのが始まりであるという 慶安2年(1649)寺領三国四斗の御朱印を大猷院様(徳川家光公)より賜る 法流の祖は■伝和尚で寛永8年(1631)入寂 神明社 富士浅間神社 香取社は当寺の別当とされ 村内には観音堂(十一面観音)六斎地蔵堂 阿弥陀堂を持す 国府台合戦で里見群の残兵がこの寺にたてこもり交戦したたtめ兵火にあい炎上したという
 時移り昭和の大普請を発願す 弘法大師千百五十年御遠忌事業で昭和58年(1983)観音堂本銅の落慶 昭和62年(1987)山門完成 興教大師八百五十年御遠忌事業で檀信徒会館竣工 平成10年(1998)客殿・庫裡を完成
 堂塔伽藍の整備によって 当山は一新をし今 さらなる飛躍を期している ここに大聖業の円成を記念し 沿革を誌す 願わくは時代の変革にかかわらず信を起し 善を修して積善の徳を誓願するものなり



所在地 江戸川区上篠崎1-22-31

 平安時代の天慶元年(938)5月15日を創建とする区内で最も古い神社で、祭神に木花開耶媛尊を祀り、ほかに摂社八社をまつっています。承平2年(932)にこの地に移住していた弥山左那比神人が初代宮司として仕えました。また、天慶3年(940)には平将門の乱を鎮めるため平貞盛が将門幸福の祈願をこめ社内に霧島神社を祀り、金幣と弓矢を献じて武運を祈った由緒の深い神社です。江戸時代(文化・文政)頃から、江戸やこの周辺からの参詣者が増加し、講社なども組織されるほどになり、明治7年(1874)に祀官拝名の社として、区内ではここ一社だけが郷社に列せられています。社宝には後花園天皇親筆といわれる連歌一巻など貴重な品々があります。


  
 宝物
村上天皇御守剣・天国之剣
御花園天皇の連歌
熾仁親王の神額
太政大臣三条藤原朝臣の神額
犬養毅の額 等々



 境内には『富士講碑』『社叢』があります。

のぼり祭り

  江戸川区指定無形民俗文化財

 文化・文政の頃から、”七浅間さままいり”のひとつとして講が組織されました。7月1日の例祭日は「のぼり祭り」といわれ、柱に下総国と銘のある高さ20米以上もある大幟が10本もたてられるので、この名があります。珍しい祭りで、日本一ともいわれています。


所在地 江戸川区上篠崎1-22-31  (浅間神社)

江戸川区登録有形文化財(歴史資料)



 高さ103センチ米、幅76センチ米、天保11子年(1840)5月吉日に「江戸北新堀 狗願主中」により建立されました。
 富士講碑は、富士山信仰のための講碑ですがこの富士講碑は一般のそれと異なり、講印や何々同行という文字がなく、中央に「元祖食行身禄」の名が大きく書かれ、下部に三猿が描かれていることで、講碑としては珍しい形式で、貴重なものです。



 食行身禄(1671~1733)は伊勢の人ですが、江戸で熱心な富士講信者となり、その中心的な指導者となって教理の体系化をはかりました。この碑は没後百余年を経て建てられています。刻字中の「■」は「禄」が正しく、「価」は富士講独特の使用法で、先師を敬ってその名の下に付けます。

 昭和56年(1981)1月13日登録 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区上篠崎1-22-31 (浅間神社)

   区指定天然記念物

社叢(神社を囲む木々)は、この社の約4000坪の浅間神社境内を包むように茂り、昔から、「せんげん様の森」として知られています。

 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区上篠崎1-23-14 (妙勝寺) 





                      沢地東淵墓誌銘





所在地 江戸川区東小岩2-2-4

 真言宗豊山派で五社山明寿院と号し、天文5年(1536)宥唯上人が開山しました。本尊は鎌倉時代に作られた木造阿弥陀如来立像で、寺宝として文政12年(1829)に政寛和尚が伝法灌頂を行った時の両界曼荼羅を所蔵しています。明治15年(1882)に区内で2番目の公立小学校「明物小学校」(現在の小岩小学校の前身)が本堂を借りて開校したので区登録史跡となっています。
 小岩生まれで近代相撲の開祖といわれる第44代横綱栃錦の菩提寺でもあります。


     法印中岳筆子塚・法印政寛筆子塚(ともに区登録有形文化財)

 江戸時代、住職の中岳と政寛は寺子屋師匠として近村指定の教育にあたりました。成長した筆子(弟子)が師匠の供養のために建てた筆子塚が山門の脇にあります。


・立羽不角の墓(区登録史跡)
 立羽不角(1662~1753)は江戸貞門派の俳諧師で小岩の出身といわれます。

 平成6年(1994)3月  江戸川区教育委員会


                                       仁王門

所在地 江戸川区東小岩2-24-2

 善養寺は、真言宗豊山派で星住山地蔵院と号します。室町時代の大永7年(1527)山城(京都)醍醐山の頼澄法印が霊夢のお告げによって小岩の地を訪れ、堂宇を建立したのがはじまりと伝えられています。しかし、永正6年(1509)の柴屋軒宗長『東路のつと』に当寺の記事があることから寺の草創は寺伝よりもさかのぼるものと考えられます。慶安元年(1648)徳川家から寺領十石の御朱印を受けた名刹で、現在の本尊、地蔵菩薩は江戸時代の作です。境内に不動堂があり、「小岩不動尊」とも呼ばれています。



 境内には『影向の松(ようごうのまつ)』『天明3年(1783)浅間山噴火横死者供養碑』『小岩不動尊逆井道向石造道標』『小岩不動尊市川道向石造道標』『横綱山』『傘の碑』があります。









                                         力石


                                                            影向の松



所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

天然記念物 影向の松(ようごうのまつ)
 江戸川区登録天然記念物 昭和56年(1981)1月登録
 東京都指定天然記念物 大正15年(1926)4月指定

 東西の枝の長さ約30m、南北28mにおよぶこの巨大な松は樹齢600年と推定され、繁茂面積では日本一を競います。「影向(ようごう)」とは神仏が姿をあらわすという意味です。



 この松は、樹齢600年ともいわれ、枝の広がりの大きさと美しさは、全国屈指のものである。延享2年(1745)に書かれた「星住山星精舎利記」には、当時すでに、境内七尋五丈の老松であったことが記されている。この松と並んで仁王門の左手には、名松「星降り松」があったが、昭和15年(1940)に枯れ、今のは二代目である。文豪大町桂月の紀行文「東京遊行記」の一節に「-山門の右に鐘楼あり。その前に、一大老松の横にひろがる者あり。凡そ十間四方に及ぶ。支柱百を以て数ふべし。これを影向の松という。立てる星降りの松に、坐れる影向の松を加へて、東京附近松の奇観は、この寺に尽きたり-」と。
 この松は、大正15年(1926)4月、東京都の指定天然記念物となった。

 昭和53年(1978)7月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

 昭和55年(1980)9月7日、この庭で行われた子供相撲大会に、小岩出身の名横綱 栃錦関(春日野理事長)が一門の、栃赤城、舛田山、栃光らの関取衆をつれて参加されました。
 それから平成2年(1990)まで春日野さんは毎年9月の大会にお出になり後輩達を励まして下さいました。
 この山は、その土俵の土で作った山です。郷土の先輩大横綱のはげましに答えて頑張りましょう。

上って下りて又のぼり 
  足腰きたえて 元気な子

 子供相撲主宰団体 入谷 友交会

山上からのの眺めは、素敵です。


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

 小岩、特に下小岩入谷(現東小岩2・4丁目)付近は、かつては和傘づくりが盛んに行われ、その販路は全国に及んでいた。小岩で傘が作られるようになったのは、一説では里見方の落武者が、此の地で傘張りで生計をたてたのが始まりといわれるが、実際に広まったのは江戸時代で、青山付近に住む小録の御家人が、内職として傘細工を行っていたものを、小岩の村人がそれに師事して技術を習得し、農閑期に副業としてとり入れたのが最初のように思われる。その後、明治後期より大正末期が最盛期で小岩の傘は「東京の地張傘」と称され、特に蛇の目は高級品であった。
 この碑はこれら地張り組合員の中で、特に業界に功績のあった、川の竹松氏を讃えるために、昭和5年(1930)3月建立されたものである。

 昭和53年(1978)7月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)

   江戸川区登録有形文化財、昭和56年(1981)登録
   東京都指定有形文化財、昭和48年(1973)7月指定

 天明3年(1783)7月6日から8日にかけて浅間山が大爆発をおこした。関東一帯に大降灰があり浅間山麓には山津波がおこり多くの村落、人家が押し流された。多数の死者が出て、その死体は遠く、この近くの江戸川の中洲に流れついた。地元、下小岩村の人々はこの死体を収容し手あつく寺内の無縁墓地に埋葬した。寛政7年(1795)の7月に十三回忌をいとなみ、この供養塔を建て、その霊を弔った。
 昭和30年(1955)ごろからこの碑は行方不明になっていたが昭和47年(1972)に寺内で発見され、ここに再建されたものである。

 昭和48年(1973)3月  江戸川区教育委員会

             小岩不動尊逆井道向石造道標
 江戸川区登録有形文化財、昭和58年(1983)3月登録

所在地 江戸川区東小岩2-24-2  (善養寺)


             小岩不動尊市川道向石造道標
 江戸川区登録有形文化財・昭和58年(1983)3月登録

2基とも当寺への道をしめす道標です。


所在地 江戸川区北小岩3-22-19

 当寺は、元和8年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享2年(1745)の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと伝えています。明治43年(1910)に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本蔵寺となり、晴立寺のあった現在地に移転しました。
 晴立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館のあとといわれ、菩提寺と伝えられています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。

 木造日朗・日像聖人坐像
                     (江戸川区指定有形文化財)

 日朗は宗祖日蓮の高弟で、日蓮宗池上門流の祖として知られています。寛元3年(1245)下総国平賀(千葉県松戸)に生まれ、日蓮聖人佐渡配流中も鎌倉にあって教えをひろめ、池上に法華堂(現・本門寺)をはじめとする諸寺を創建し、元応2年(1320)入寂、76歳でした。
 日像は日朗の末弟で、文永6年(1269)下総国平賀に生まれ、7歳で身延山にて日蓮聖人に給仕しました。聖人滅後は、兄の日朗に師事し、後に日蓮上人の遺志をたいし、京都で法華経をひろめ、妙顕寺を拠点とする京都日蓮宗の基礎を築いたといわれています。享年74歳でした。
 この両聖人の坐像は京都妙顕寺の旧蔵品であり、天保6年(1835)に妙顕寺より下賜されたものと伝えられています。寛永19年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺十三世日饒、十四世日豊の署名と花押も残っています。製作年代は室町時代と考えられる秀作で、両像とも35センチメートルの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影がよくしのばれます。
 平成12年(2000)9月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区北小岩3-23-11

 真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県国分(市川市)の金光明寺の末寺です。起立は文秀法印(慶長12年・1607没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の墓と伝わる宝篋印塔があります。参道入口には地蔵菩薩庚申塔があります。


所在地 江戸川区北小岩3-23-11 (宝林寺)

江戸川区区登録有形文化財・建造物
 宝林寺の常燈明
     昭和56年(1981)1月登録

 もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和9年(1934)に河川改修のためここ寳林寺(宝林寺)境内に移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈明は千住総講中の人たちによって天保10年(1839)に建てられました。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mあります。


所在地 江戸川区北小岩3-23-11 (宝林寺)

江戸川区登録有形民俗文化財・民俗資料
 地蔵菩薩像庚申塔
     昭和59年(1984)2月登録
 
 寳林寺(宝林寺)参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は14.4cm、寛文10年(1670)に建てられました。
 平成18年(2006)1月 江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区北小岩3

   江戸川区登録史跡 北野神社~蔵前橋通り(道路部分)
 ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するとことで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』の伊予田村の頃にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。
 御番所町は、『徳川実紀』、延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるもの考えられます。現在も残る角屋旅館のほか、筑前屋、清水屋などの旅籠屋を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などが並んでいたと伝えられます。東西道の江戸川に突きあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。道標は今も原位置にあり、道路の様子も旧状をとどめています。そのほかにも、江戸川畔にあった常燈明宝林寺内)や、関所役人中根家の墓(本蔵寺墓地)など、当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。
 



所在地 江戸川区北小岩3-23-3

 旧伊予田村(現在の北小岩3・4丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治42年(1909)に合祀され、今の北野神社となりました。昭和39年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた茅の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔嗚尊を加えた三柱を祀ってあります。




・茅の輪くぐり(区指定無形民俗文化財)
 直径3メートルに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子たちが家族の氏名や年齢を書いた人形を持って茅の輪をくぐり、無病息災を願う夏越しの行事です。毎年6月25日の例祭日に行われます。茅の輪くぐちが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しました。素戔嗚尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事による行事です。
 平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会

 境内には『力石』があります。



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