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東京都江戸川区の歴史
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所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社)  

   大雷神の由来
 大雷神は、俗に「一之江の一つかみなり」と称賛され往古より当地の農業文化に深い貢献を施し深く信仰を重ね、その氏名を果してまいり、東一之江村の福島家に江戸時代よりお祀りされてまいりました。
 田植の季節には時々、北は日光より降りて来る雷、西は秩父の山々より降りてくる雷、南は太平洋の雷、東は筑波より降りてくる雷、これらの雷達が一天に集まり風雨をともない、ごろごろと威力を争い合い鳴り渡ります。
 子供達の教訓として「おへそを隠せ」の言葉の掛かる頃、此の時が大雷神の出番なのです。耳をツンザク音と共に他の雷を征服して仕舞います。これが地域の人々の言う「一之江の一つかみなり」なのです。
 6月15日間近になると、この雷が出現、農民達は田植作業を終らせて、この雷様のお祭に参加致します。それが農業の手休みの一日としてたのしみながら、「オシャラク」の舞や出店がたくさん出て賑やかになります。其の日は講社の人々、近在の人々の参拝も数多くあり、あとを断たなかったのです。
 昭和63年、この大雷神の世話人の不在の為、香取神社と上一之江氏子総代一同の協議の結果、当社境内に遷碑すこととなり、児童の教育と大雷神、間々井神社の信仰を深める為に、例年6月15日には、水神祭に併せて例祭を復興することとなりました。大雷神を奉斉して家内安全、家業繁昌、無病息災をお祈り致します。
 平成元年(1989)6月15日 安井はな 福島和夫

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所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社) 

    道祖神の由来
 当神社の道祖神は、『猿田彦の命』をお祀りしてあります。この村が創立した頃より、昭和35年(1960)迄現在の松島2丁目10番の地に鎮座されて居りましたが、土地整理の為当社の境内に移転になりました。
 通行人の道を守ることと、村に悪霊の侵入を防ぐ為に祀られましたが、後に人体の筋を守ることも、この神様が司り、目、耳、足、腰の筋をお守りして居ります。
 草履や食器の中に穴を空け、道祖神に奉納してその恢復をお祈り致します。体の悪い部分をよく撫でて参拝して下さい。
 又、お正月の『どんど焼き』は、『どうそじん焼き』からの行事です。その他、道ヶ島旧地名等も『道祖が島』から転じた地名とも思われます。


所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社) 

   鷲神社の由来
 大鳥神社とも称し、祭神は『ヤマトタケルノミコト』です。例年11月酉日に『新小岩のおとり様』と多くの信者に親しまれて盛大なお祭が行われます。
 境内では、福熊手(かっこめ)の授与があり、参拝者の家々の隆盛、商売繁盛をお守り致します。
 酉祭の末日には、伝統の蟇目の舞神楽が奉納され福御縁の授与が行われます。


所在地 江戸川区中央4-5-23 (香取神社) 

       鏝塚のいわれ 
 左官の使用する鏝は人間が住居を築いて生活を営むようになってから体験により外的防御又は保温のために壁天井を塗るようになり、はじめは木製の鏝を使用しました。世の進歩と時代の要求に従い地金鏝刃金鏝ステンレス鏝が出来て今日では千余種類用途によって多種多様の鏝が使用されています。
 鏝は左官の生命であり二千余年の永きにわたり左官と共に歩んで古代より現代に至る建築並びに左官工事に大いなる貢献をしてまいりました。
伝統ある「鏝」技能を伝承した江戸川区左官同業者の発起により東京都左官組合連合会会員一同が「鏝」の労を労い、感謝の意を表するためにここに鏝塚を建立した次第であります。
 昭和43年(1968)11月3日







所在地 江戸川区東葛西7-17

 旧東宇喜田村中割の鎮守で、慶安2年(1694)邵値阿闍梨が天照大神の分神を勧請したのが始まりとされてます。もとは神明社とよばれ、明治5年(1872)に天祖神社と改称されました。当社は、区画整理に伴う道路建設等により平成元年(1989)3月、東葛西9丁目5番地から現在地に移転し、社殿も新築されました。
 境内には『中割の富士塚』があります。



  天祖神社の棟札(区登録有形文化財)
 旧本殿内部に保有されていました、12枚あるうち、最も古いものは、『慶安2年9月廿9日』の年記と、『邵値法印』の名が記されています。区内旧村在住者の大工の名、各時代の氏子の名が克明に記されており、中割築の村落構成の様相をうかがうことができます。(保管場所・江戸川区郷土資料室)
  平成2年(1990)3月  江戸川区教育委員会



  天祖神社沿革
 本社は慶安2年(1649)旧東宇喜田村中割の鎮守として昇覚寺開祖邵値阿闍梨が、天照皇大御神を勧請し建立したことに始まる。別当は昇覚寺がこれを務め
、創建時代は「大名神宮」と称し後に「神明社」「神明宮」と改称される。
 明治5年(1872)本社が村社となるに及んで、別当は神職に委ねられ名も天祖神社と改称し、爾来、本村の氏神守護神社として、多くの氏子を擁し敬虔な信者を中心に、近村に及ぶ信仰をあつめるに至った。
 本社は創建以来、数度に亘り再建されたが、今回、区画整理事業都市計画街路補助道建設棟の事由により東葛西9丁目5番1号から余儀なく換地先現在地へ移転。5たびの造営となり昭和63年(1988)3月から工期1ヶ年余を費やし、社殿、水屋、社務所を新築。鳥居、狛犬、敷石を荒t画にして、端垣を増設植樹を為す。灯篭・富士塚・疱瘡神・顕彰碑等はその侭移転整備した。造営にあたっては、町民挙ってこの一大事業に深大な支援協力を得た。併せて篤志家のご厚志を仰ぎ、勧進した浄財と葛西土地区画整理組合からの移転補償金を以てこれに充て、平成元年(1989)3月竣工をみる。この業績を記念し経緯を永く沿革としてしるす。
  平成元年(1989)3月吉日   中割天祖神社建設委員会


所在地 江戸川区東葛西7-17 (中割天祖神社)
  
江戸川区登録有形民俗文化財
 中割の富士塚
      


 この富士塚は、昭和初年に、葛西講(富士を信仰した人びと)によって旧天祖神社境内に築造されたものです。神社の移転とともに、ここに移築されました。
 平成2年(1990)3月  江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区北葛西3-2-1

行船公園は、地元の田中源氏が寄贈した地に昭和11年(1936)に開園しました。面積は約3万㎡で、園内には自然公園、平成庭園などがあります。
昭和58年(1983)に開園した自然動物園には、アシカや、ペンギンを始め、友好都市であるオーストラリアのゴスフォード市から来たベネットワラビーなどがいます。
平成元年(1989)に改修落成した「平成庭園」は、多彩な水辺の景趣が楽しめる築山池泉回遊式庭園です。
東京湾の潮の干満に合わせて水位が変化する「潮入りの池」、数奇屋造りの茶室「源心庵」、約800本のつつじの築山など、水と緑が美しく調和した庭園は四季折々の変化が楽しめます。
 園内には『田中源先生顕彰碑』、『灯籠』があります。
     
Opened in 1936,the 3-hectare Gyosen Koen Park comprises a zoolojical park housing such exhibits as sea lions and penguins.
It also contains the Heisei Teien,a Japanise-style garden and tea house where the canges of the four seasons can be enjoyed.


所在地 江戸川区一之江1 ~ 船堀7

一之江境川親水公園



  舟の往来
江戸時代の一之江境川は水深も深く、農耕のための用水ばかりでなく、舟の往来にも用いられました。一之江新田の記録の中に、川床があがって舟の進行にさしつかえるので、川浚いをしたいという願書があります。
一之江境川のそそぎ込む新川は、江戸川と中川を結ぶ水路で、江戸と行徳の間を往復した行徳船の航路としてもにぎわいました。行徳船は、江戸から成田詣でに行く人びとを多く運んだといわれ、にぎやかな船旅が想像されます。明治になってからの新川は、蒸気船の航路で、おおぜいの人や大量の物資輸送に大きな役割をはたしました。
 平成8年(1996)4月 江戸川区



所在地 江戸川区船堀6-7-23

 旧船堀村東組の鎮守です。祭神は国常立尊で春日大神と稲荷大神を合祀しています。慶長19年(1614)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりといわれ、江戸時代、隣接の光明寺が別当をつとめていました。明治6年(1873)に日枝神社と改称しました。



境内には、船堀の富士塚(区登録有形民俗文化財)・乾海苔創業記念碑力石(区登録有形民俗文化財)があります。



所在地 江戸川区船堀6-7-23 (日枝神社)

 富士塚は、富士信仰の団体である富士講の人たちが、富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと々霊験が得られるようにと願って築かれました。
 船堀の富士塚は、旧船堀村の登山講の人たちが、明治25年(1892)に築きました。高さは約2メートルです。盛土された面積は広く、山肌はボク石(溶岩)で覆われ、登山道は「く」の字型に作られています。
 頂上には浅間神社をまつり、五合目には浅間神社の石碑があります。体裁よく整えられた富士塚です。
 平成14年(2002)1月  江戸川区教育委員会



   昭和58年(1983)3月登録
   区登録有形民俗文化財・民俗資料
 明治25年(1892)、「登山講」によって築造されてものです。椀上盛土され、ボク石(溶岩)に覆われています。上り口に「登山講」、中腹には「小御嶽神社」の石碑があります。「登山講」は明治時代に解散したといわれています。
 平成23年(2011)3月改訂  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区船堀6-7-23 (日枝神社)

 海苔はかつて江戸川区の特産でした。この碑は明治30年(1897)に建立され、明治の中頃、鈴木紋四郎をはじめとする船堀村の有志が海苔養殖の創業に尽力したことを後世に伝えています。
 平成23年(2011)3月改訂  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区船堀6-7-23 (日枝神社)

     平成22年(2010)3月登録
     区登録有形民俗文化財・民俗資料
 江戸時代から近代にかけて、若者たちが力試しに持ち上げた石です。かつて日枝神社では、力試しの催しがさかんでした。14基のの力石と、力試しの記念碑である「力持ちの碑」(明治23年銘)が境内入口に集められています。
 平成23年(2011)3月改訂  江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区船堀6-8-18

 真言宗豊山派で、稻香山横道院と号します。開山は覚仙上人で、慶長19年(1614)本尊に不動明王(雲切不動尊)を祀り、ここに一寺を建立しました。
 門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、俗に「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、深川から成田さんに旅する人も少なからず立寄って参詣しました。
 当寺は、天明2年(1782)の火災、大正12年(1923)の関東大震災などの災禍にみまわれました。現在の本堂は昭和49年(1974)に建築されたものです。



・葛西大師まいり(区登録無形民俗文化財)
 江戸川区の人々は、古くから弘法大師霊場巡りを盛んにおこなっています。当寺も葛西大師まいり(船堀・宇喜田・小島組)の霊場の一つです。

  平成元年3月(1989)3月 江戸川区教育委員会



所在地 江戸川区一之江7-23-11

日蓮宗
 江久山 蓮光院 感応寺(感應寺)

 


所在地 江戸川区一之江6-19-10

 日蓮宗で、金嶋山妙覚寺等覚院と号します。開山は等覚院阿闌梨日全で、弘安7年(1284)の創建と伝えています。日全は中山法華経寺二世日高の弟子とも、三世日祐の弟子とも伝えています。のちに身延の日進に師事し、「法華問答正義抄」の著述があります。
 日蓮上人木造坐像は、日蓮の高弟である日朗の作と伝えられます。



・紙本墨書大曼荼羅(ニ幅)(区登録有形文化財)

 曼荼羅は、もともと諸尊の悟りの世界を表現したものといわれ、一定の方式に従って多くの仏や菩薩の像を描いた図のことをいいますが、日蓮宗の曼荼羅は各尊を文字で書き表しています。応安元年(1368)と記された曼荼羅は、日祐の筆で、妙覚寺第二世日典に授与されました。嘉暦2年(1327)のものは、妙覚寺開山日全の筆です。

 平成2年(1990)3月  江戸川区教育委員会



        妙覚寺史跡
一.金嶋山等覚院妙覚寺と称する。
当山は、700年の昔、弘安7年5月千葉介六祖頼胤公甥、小納言律師等覚院阿闌梨日全上人が開山しました。
千林坊、正蓮坊と云う塔頭があった日蓮宗の古刹であります。
昭和42年(1967)4月篤信の檀家により奥庭に開山堂が建立されました。昭和57年(1982)5月には、宗祖日蓮大聖人七百遠忌、開山七百年を記念して檀信徒の寄進により、客殿、庫裡が完成しました。
一、第六天宮 所在地江戸川区一之江3-27-2
第六天宮は、妙覚寺の飛地境内地にあります。600年ほど昔、慶安元年(1648)8月15日の夜当山第ニ祖日典上人が勧請しました。境内には、樹令500年以上と云われる御神木”エノキ”があり、江戸川区天然記念物に指定されています。昭和61年(1986)11月社殿を新築しました。
一之江殿
年代不詳古、当の付近に伊達屋敷というところがありました。伊達某の往せし跡と云います。其の辺、馬場、出口等の小名あり、当山の過去帳に、一之江殿善幸としるされているのは、この人のことなりと傳えられています。
一之江保育園
昭和27年(1952)9月5日第三十四世日真が開設しました。宗教法人妙覚寺が経営する。東京都認可の児童福祉施設であります。
一、妙見さまと星祭り
壱千五十年ほど昔、承平5年(935)の頃、千葉氏の祖、平良文将門の乱”小貝川の合戦”に妙見神”北斗七世の主神北極星”を守護神として出陣し戦勝を治めたと云います。後に平氏は、千葉氏と名のり、江戸川河口の小島に妙見神を氏神として祀り、代々の千葉氏が崇拝したと云います。今は、妙見島という地名がのこっています。御神体は当山に安置されたと寺傳にありますが現存しておりません。妙見さまをあつく信仰する篤信の檀家により、当山の年中行事として行っている。妙見様の星祭り”12月22日冬至”に妙見堂を建立し寺傳の如く、妙見様をお祀りしました。
 昭和61年(1986)12月吉日 
 金嶋山妙覚寺 第三十四世露木日真記す。


所在地 江戸川区西一之江3-33-1

 浄土宗で摂取山光照院と号し、大永元年(1521)貞誉法養大和講によって開山されました。本尊には阿弥陀如来をまつっています。



・戒誉上人筆子塚(江戸川区登録文化財)

 当寺は、「こどもでら」と通称され、明治39年(1906)に焼失した庫裡を教場にして寺子屋が開かれ、歴代住職が師匠をつとめました。筆子(寺子屋の生徒)は、旧東小松川村、松江村、瑞江村一帯から集まったといわれます。
 筆子塚は、成長した筆子たちが師匠をしのんでたてた供養塔(墓石)のことです。
 享和2年(1802)に入寂した定蓮社戒誉上人の墓石には「読書手跡門人」(筆子)による造立であることが記されています。

 平成元年(1989)3月 江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区一之江5-8-20

 妙音寺は真言宗豊山派で医王山不動院と号します。建久元年(1190)秀栄上人の開山といわれ、『江戸名所図絵』などにも記載されている、区内でも有数の古刹です。のち秀誉上人(天正3年入寂・1575)や、大空法印(安永9年入寂・1780)がそれぞれ中興しました。本尊は木造十一面観音立像で桃山時代の作です。そのほか、春日仏師作といわれる薬師如来がまつられています。境内から、南北朝時代などの板碑数基が発見されました。


                             板碑


・木造阿弥陀三尊像 
  (江戸川区指定有形文化財、平成18年〔2006〕3月指定)
 本銅脇壇に安置される三尊です。中尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代初期の作風を示す秀作です。また、両脇侍(観音・勢至)は南北朝時代(14世紀中頃)に補われたと考えられます。


・片目の鮒の伝説
 むかし、一人の目の不自由な娘がいました。その娘は、目を治そうと、妙音寺の薬師如来に21日の願をかけ、食を絶ってお祈りしました。すると、満願の日に、目が見えるようになりました。娘はお礼にと薬師の池にたくさんの鮒を放ったところ、鮒は全て片目になったといわれています。

 平成20年(2008)3月  江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区松江2-1-10 (松江区民プラザ・松江図書館)

 明治22年(1889)の市町村制施行に依って、松江村ができました。
 「松江」の名は、この時に小松川村と西一之江村とが合併したことに由来します。大正15年(1926)4月1日に松江町となり、この場所に町役場が設置されました。昭和4年(1929)、町民の団結を強めようと、かつて小岩に居を構えていた北原白秋に作詞を、山田耕筰に作曲を依頼して、「松江町歌」が作られました。それから3年後の昭和7年(1932)10月1日、当時の小松川町・松江町・小岩町・鹿本村・篠崎村・瑞江村・葛西村の7カ町村が合併して江戸川区が誕生しました。


                            昭和初年の松江町役場


所在地 江戸川区松江2-1-10 (松江区民プラザ・松江図書館)

 江戸川区登録有形文化財・歴史資料

 文久2年(1862)建立の道標で、正面に「是よりかわら」と刻まれています。江戸川の対岸にあった河原村を示す道標で、もとは西一之江4丁目の松江通り(行徳道)沿いにありました。


所在地 江戸川区春江町2-21-2

 一之江名主屋敷は、江戸時代はじめにここへ来て新田を開発した田島家の居宅です。江戸時代を通じて一之江新田の名主をつとめてきました。現存する主屋は安永年間(1772~1780)に再建されたものです。周囲に堀をめぐらし、屋敷林、屋敷畑、庭園をそなえた、中世土豪的屋敷構えを伝えています。



 昭和29年(1954)の史跡指定から今日まで、所有者である田島家のご努力により、ほぼ現状が保存されてきました。敷地環境の変化と老朽化がすすんだため、平成元年(1989)から平成5年(1993)にかけて建造物の復元修理をおこない、平成10年(1998)から平成11年(1999)にかけて、敷地景観の整備をおこないました。
 この屋敷が最も整備されたと思われる江戸時代末から明治にかけての様子を、長く後世に伝えていきたいと思います。

 平成11年(1999)5月
   東京都教育委員会
   江戸川区教育委員会


所在地 江戸川区春江町2-39-28

 日蓮宗で本高山と号し、千葉県松戸市平賀にある本土寺の末寺です。この地の開拓者田島図書が開基となりました。寛永5年(1628)のことでした。境内には『鬼子母神像を祀るお堂』『田島図書の墓(江戸川区登録史跡)』『石造釈迦如来坐像(江戸川区登録有形文化財)』があります。



所在地 江戸川区春江町2-39-28 (城立寺)

  田島図書(椿の開拓者)

 江戸川区登録史跡

田島図書はもと豊臣家の家臣で堀田図書重盛と言われています。関が原合戦のあと西一之江村大杉の田島庄兵衛方に奇寓し、田島英丈と改名しました。
慶長11年(1606)のことであったと言われています。
図書は一之江新田を開発しました。
一之江名主屋敷・田島家の先祖です。
寛永5年(1628)10月に一族の甲冑を埋めて私領と寄進して城立寺を創建したと言われており当寺が菩薩寺です。

 田島図書は、一之江新田の開拓者で一之江名主屋敷の田島家の先祖です。田島家に伝わる口伝によると、図書はもと豊臣方のか死んで堀田図書重盛と名のっていましたが、関が原合戦後逃れて西一之江村大杉の田島庄兵衛方に寄寓、田島図書英丈と名をかえて開拓を進め、この地の草分けとなりました。図書は当寺の開基として「正善院日慶」と号し、寛永20年(1663)12月25日に没しました。墓は墓地中央、釈迦如来像の後にあり、笠付きのもので、「妙法正善院日慶」の法名が刻まれています。


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